掠れた音
押し入れを開けたのは、別に理由があったわけじゃない。
梅雨に入ってから、部屋がずっとじめじめしてる。教室でも家でも空気が重くて、スマホをいじっても何も面白くなくて、ごろごろしてたらなんとなく手が動いて、気づいたら押し入れの引き戸を引いていた。
黒いハードケースがあった。
何年も見てきたやつ。何十回も目に入ってきた。でもいつも「あ、あるな」で終わってた。今日は違った。というか、違うというより、他にやることがなかっただけかもしれない。
ラッチが固くて、指の腹で押しても全然動かない。本気で力を込めたら、バチッと外れて指が赤くなった。
蓋を開けたら、なんか匂いがした。
甘いような、古いような。木の匂い、なんだろうとは思うけど、それだけじゃない感じもして。うまく説明できない。押し入れの匂いとも違う。もっと前の時間の匂い、みたいな感じ。なんかそういうのって、言葉にするとすごく恥ずかしくなる。でも実際そう感じたから仕方ない。ぼくはしばらくそのままでいた。
アコースティックギターだった。
茶色い、というか、黄色から濃い茶色にだんだん変わってる感じ。ネックのあたりに細かいひびがいっぱい走ってて、塗装が割れてる。ペグがくすんでて、一個だけなんか白っぽく粉を吹いてた。ライブ動画に出てくるギターと、雰囲気が全然違う。あっちはもっとぴかぴかしてる。これはなんか、ちょっとくたびれてる感じがする。
お父さんのギターだとは思う。詳しいことは知らない。聞いたことも、聞こうとしたこともない。
持ち上げてみると、思ったより軽かった。抱えた途端、さっきの匂いがまたふわっときた。弦が黒ずんでいて、指で一本弾いてみたら音というより振動だけが返ってきた。空洞の中でぼとっ、てなる感じ。まずチューニングしないといけない。
スマホのチューナーアプリを開いた。なんとなく前から入れてあった。ペグを回そうとしたら重くて、力入れたらギギ、って音がした。錆びてる? それとも元からこういうもの? わからないけど、とりあえず一弦ずつ合わせていく。針がぷるぷるしながら真ん中に寄ってくると、なんかゲームのゲージが満タンになる感じがして、ちょっと面白かった。完璧じゃないけど、まあこんなもんか、ってところで止めた。
じゃあ弾いてみよう。
Gコード。動画で何回も見たやつ。人差し指と中指と薬指を使う。実際に弦に触れると、金属の冷たさがある。思ったより細い。押さえると弦が指に食い込んで、想像の3倍くらい痛い。力を入れて入れて、よし、と思って右手で弦を弾いた。
音が出た。
でも、おかしかった。
「じゃん」じゃなくて「ぼよん」だった。なんか詰まった音。プラスチックのバケツを叩いたような、というか、そんなはっきりしたものでもなくて、なんか空気が抜けたみたいな。余韻も全然ない。和音のはずなのに、どの音が鳴ってるのかよくわからない。
左手の押さえが足りないのかな、と思ってさらに力を入れる。指が痛い。でも音はほぼ変わらない。くぐもったまま。
もう一度。
ぼよん。
同じだった。
ぼくは指を離して、ギターを見た。何かが間違ってる気はする。でも何がって言われると全然わからない。
動画で見たとき、弾いてる人の指はぼくと似たような形してたと思う。フォームも一応確認した。なのになんでこっちはこういう音になるんだろう。まあ最初ってこんなもんなのかな。初めてやる人間はみんな「ぼよん」から始まる、ということなのかもしれない。そうであってほしい。
Cも試してみた。指3本を別々のフレットに置く。薬指、中指、人差し指。動画で繰り返し見て、位置は覚えてる。ゆっくり置いてから弾く。
ぼよん。
また同じだった。
スマホで動画を開き直す。指の角度、押さえる位置、フォーム全体。見比べてみるけど、自分のどこが違うのかよくわからない。動画の人のは「じゃん」って鳴ってる。ちゃんと音の輪郭がある。余韻がある。バラバラじゃなくてまとまって響いてる。ぼくのは全部バラバラで、すぐ消える。
ぼくの指が向いてないのかな。指が短いとか、関節の形が合ってないとか、そういう理由でギターが弾けない人っているのかもしれない。ぼくがそっちなのかもしれない。
でも、もう一回だけやってみよう。今度はGとC、交互に切り替える。動画で見てたやつ。
Gを押さえる。弦を弾く。ぼよん。
Cに切り替える。指が迷子になる。どこに置くんだっけ、と考えてるうちに何秒かかかる。やっと置いて弾く。ぼよん。
テンポとか関係なく、ただ指を動かしてるだけ。慌てると関係ない弦に触って、音が止まる。また最初からやり直す。また切り替える。また迷子になる。
なんで動画の人はあんなに滑らかに動くんだろう。ギターって、もしかして才能がいる楽器なのか。
そのうち指先が痛くなってきた。人差し指の腹に弦の跡が3本くっきり残ってた。押さえてた部分が白く凹んでる。触ったら鈍くて、ちょっとしびれてる感じがした。
ぼくはギターを膝に置いたまま、しばらく動かなかった。
リビングの方で、お父さんがくしゃみをした。
ぼくはなぜか、ギターの弦を手で押さえて音を止めた。
外で雨が降り始めてた。そんなに激しくなくて、ただ降ってる音。
弾けると思ってたわけじゃない。でもなんか、もう少し何かあると思ってた。音が、もう少し「音」になると思ってた。ギター弾けたらどんな気分だろう、ってぼんやり思ってたのは本当のことで。でも今日やってみて、鳴ったのは「ぼよん」だった。何回やっても「ぼよん」だった。
ギターを見る。くたびれた木の表面。黒ずんだ弦。割れた塗装。
お父さんがこれで何を弾いてたのか、ぼくは知らない。どんな音を出してたのか。ちゃんと「じゃん」ってなってたのか。聞いたことも、聞こうとしたこともない。ただずっと、押し入れの奥にあった。
ぼくの指が悪いのか。それともギター自体がもうだめなのか。弦が古すぎるとか。でもそれもわからない。
ケースに戻そうとした。でも手が止まった。
ギターを布団の横に立てかけておいた。
また触るかもしれない。触らないかもしれない。べつに決めてない。ただなんか、押し入れに戻す気になれなかった。
窓の向こうで雨がまだ降ってた。