いい感じですね
梅雨が明けてから、太陽がやたら近い気がする。
ギターケースを手に下げて歩いてた。電車一本、駅から十分。もう迷わない道だけど、なんか今日は来るのにちょっと時間がかかった。途中で一度立ち止まったりして、べつにどこかに寄ったわけじゃないのに。
「聞いてよ」って言いに来るのは、変な感じがした。
自分から「これ聞いて」って言うの、あんまり得意じゃない。うまくいったこととか、なんか成し遂げたこととか、いつも事後報告というか、誰かに聞かれてから話すみたいになる。でも今日は先にそう決めてから来た。来る前から「聞いてほしいんだけど」って言おうと思ってた。それだけで準備に一週間くらいかかった気がする。
看板が小さい引き戸を開けたら、金属と木の匂い。
「いらっしゃ——あ、ヒロか」
「ちょっと、聞いてほしいんだけど」
言えた。思ったより普通に言えた。
けんじさんが作業台の向こうで手元を見たまま、「ほう」と言った。向き直るでもなく、止めるでもなく、ただ「ほう」だった。それがなんか、「どうぞ」みたいな感じに聞こえた。
ぼくはカウンターのそばに立って、ケースを置いて、ギターを出した。
C、G、D、Em7・D。
じゃん、じゃん、じゃん、じゃん。
全部鳴った。もう一周。また鳴った。コードチェンジのたびに音が切れなくなってきて、流れがある。そういうことが、少しずつ当たり前になってきてる。
けんじさんは作業の手を止めないまま、時々こっちに顔を向けてた。何も言わなかったけど、聴いてるのはわかった。
もう一周。また鳴った。
そのうち、口が動いてた。
はっきり意識したわけじゃない。気づいたら少し声が出てた。あの曲のメロディ。手を動かしながら、なんか自然に喉が動いてた。小さく、だったけど、たしかに声だった。
あ、これ、昔やってたな、とぼんやり思った。
歌うということ。お父さんといっしょに。どこでとか、何を歌ったとかは、うまく思い出せない。ただ、声を出してることが変じゃなかった頃が、たしかにあった気がした。遠い話。でもたしかにあった。
もう少し声を出してみた。
ダメだった。
「じゃん」のタイミングで手が遅れた。声に引っ張られて指が止まる。止めたら歌の方もずれる。もう一回やろうとしたら今度は手が先に行って、口が追いつかなくて、全部がバラバラになった。
「じゃん——」途切れた。「——んん」
止まった。
けんじさんが手を止めた気配があった。ぼくは顔が熱くなってるのがわかった。弦から手を離して、ギターを膝に置いた。何も言えなかった。なんか言おうとしたけど、「あの」くらいしか出てこなかった。
引き戸が開いた。
金属の音がして、店の空気が少し動いた。振り返ったら、見たことのない人が立ってた。五十くらいか。角ばったバッグを肩にかけてて、眼鏡をかけてた。けんじさんと似た雰囲気というか、なんか構えてない感じがあった。
「やあ」とその人はけんじさんに言った。
それからこっちを見た。
「いい感じですね!」
ぼくは何も言えなかった。
いい感じ。どこが。いま全部止まったのに。手も声も両方ダメになったのに。顔が赤いのが自分でもわかってるのに、その人は笑ってた。意地悪じゃなくて、ただ普通に笑ってた。
「ヒロ。シーさんだ、ぼくの昔からの友達」
けんじさんがそう言って、また作業台に向き直った。
ぼくはまだ、ギターを膝に置いたまま動けなかった。シーさんと名乗ったその人は、バッグをカウンターに置きながら「ギター、始めたんですか?」と聞いた。
「はい、まあ」
「いいですね」
またそう言った。「いい感じ」でも「いいですね」でも、何がいいのかよくわからないままだったけど、なんかその言い方に、否定する気持ちがなかった。
外は夏の光だった。引き戸の隙間から、まっすぐな白い線が床に落ちてた。
「兄貴の息子なんだ」
けんじさんが作業台に向いたまま、それだけ言った。
シーさんがぼくを見た。さっきとは少し違う目で。
「へえ、この子が」
小さくそう言って、それからギターを見た。膝に置いたままのやつ。シーさんの視線がそこで止まった。
「おお。このギター……」
けんじさんのときと似た間があった。一秒か二秒か。何かを確認してるみたいな、でも何を確認してるのかぼくにはわからない、そういう沈黙。
シーさんはぼくに視線を戻した。
「歌いながら弾きたいんだね?」
さっき見てたからわかったんだろうけど、なんかそれだけじゃない気もした。どうしてそうわかるのか、うまく説明できない。ぼくは「まあ……そういうことかも」とだけ答えた。
シーさんは「そうですか」と言って、少し笑った。
