それだけが確かだった
家に帰ってから、シーさんの言葉がずっと頭の中にある。
自分の言葉で、という話。Taylor Swiftがそうした、という話。全社から断られて、それでも、という話。
何度か繰り返してみる。何度繰り返しても、自分に当てはめようとしたとき、うまくはまらない感じがした。自分の言葉って、どういうことだろう。ぼくはまだコードを4つしか知らないのに。曲として弾けるかどうかも、まだよくわからないのに。
ギターを膝に乗せた。弾くわけじゃなくて、ただ持ってた。
まだ始めたばかりで、何もわかっていない。
それは本当のことで、弦の押さえ方も、コードが4つあること以外のことも、音楽っていうものが実際どういうものなのかも、ぼくは全然わかっていない。シーさんが話してくれたことの、たぶんほとんどをまだ理解してない。けんじさんが直してくれたギターのことも、ちゃんと分かってるかどうか怪しい。
それでも、弾きたい、と思う。
なんでかはわからない。別に音楽が得意だと思ったこともないし、うまくなりたいという気持ちが強いのかと言われると、それもちょっと違う気がする。ただ、弾きたい。弾けるようになりたい。なんでかはわからないけど、その気持ちだけはある。
変だな、とぼくは思った。理由もわからないのに、こんなにはっきりしてるのは。
そのとき、なんとなく思い出した。
お父さんと、歌ってた。
いつのことか、うまく思い出せない。どこで歌ったのかも、ぼんやりしてる。何の曲だったかも、全然わからない。
でも、歌ってた。
光があった気がする。昼間の、窓から入ってくるみたいな。声が小さかった気がする。お父さんの声も、ぼくの声も、大きくなかった。なんか普通に、歌ってた。そのときのぼくは、歌うことを変だとも恥ずかしいとも思ってなかった気がする。
それだけしか思い出せない。
何の曲だったんだろう、と思ったけど、どうしても出てこなかった。思い出そうとすると、光だけ残って、曲はどこかに行ってしまう。
ぼくはギターを少し鳴らした。
C、G、D、Em7・D。
じゃん、じゃん、じゃん、じゃん。
うまくはなかった。たぶん誰かに聴かせられるやつじゃない。でも音は出た。
なんで弾きたいのか、やっぱりわからない。お父さんと歌ってたのと関係があるのかも、わからない。シーさんが言ってた「自分の言葉」が何を指してるのかも、まだわからない。
わからないことが多すぎる。
でもギターを弾きたい、という気持ちだけは、どこを探してもわからない理由があった。
夜の部屋に、じゃんという音が消えていった。
窓の外は暗くて、遠くで虫が鳴いてた。
コンコン。
「ヒロ、ご飯だよ」
ドアの向こうから姉の声がした。ぼくは返事をしようとして、ドアが開いた。
「あれ」
姉がぼくとギターを交互に見た。五歳上で、社会人になってからも実家にいる。
「ギター始めたんだ」
「まあ、ちょっと」
「いいじゃん」と姉は言って、部屋に入ってきた。「これ、パパのやつだよね。懐かしい」
ぼくは少し驚いた。
「これ、知ってるの」
「もちろん。ヒロだって知ってると思うけど」
「……覚えてない」
姉がぼくを見た。そのまま少し考えるみたいな顔をして、「ちっちゃかったからねえ」と言った。
特に何も続かなかった。
「あ、ご飯だよ。冷める前に来な」
姉がそう言って、出ていった。
ぼくはしばらくギターを持ったまま、動かなかった。
ちっちゃかったから。
そうか、とぼくは思った。覚えていないんじゃなくて、ちっちゃかったから覚えていないんだ。
何の話かはまだわからない。でも何かはあった。
ギターを布団の横に立てかけて、リビングに向かった。
