雨上がり
「それ、持ってきなよ」と言ったのは、けんじさんだった。
けんじさんはお父さんの弟で、中古楽器屋をやってる。小さい頃からお父さんに連れられてよく来ていた店で、ぼくにとってはわりと近い場所だ。お父さんには気恥ずかしくて言えないことも、なんとなくけんじさんには話せる。なんでかはよくわからないけど、そういう人がいる。だからギターのことを持っていこうと思った。自分で決めたことだった。
けんじさんの店は、駅から歩いて十分くらいのところにある。
看板が小さくて、はじめて行くとちょっと迷う。引き戸を開けたら金属と木材が混ざった匂いがして、中は思ったより広かった。壁一面にギターが吊るされてて、ショーケースには小さい機材がびっしり並んでる。奥の方に作業台みたいなのがあって、そこだけ蛍光灯が明るかった。
けんじさんは作業台に背を向けたまま、「いらっしゃ——あ、ヒロか」と言った。
四十代くらい。お父さんより少し若い。愛想がいいというより、構えてないというか、接客っぽくない感じがした。
「持ってきた」とぼくはハードケースを持ち上げた。
「開けてみ」
ぼくはカウンターの前でケースを置いて、ラッチを外した。蓋を開けた瞬間、あの匂いがした。木のやつ。甘いような古いような。押し入れで最初に嗅いだやつだ、と思った。けんじさんが手を拭きながら近づいてきて、ケースを覗き込んだ。
「お、これか」
小さくそう言って、けんじさんの手がスローモーションみたいに止まった。一秒か二秒か、あの感じは今でもよく思い出せない。驚いてる、というよりも、何かを確認してるみたいな顔だった。
「いいよ、出して」
ぼくはギターをケースから取り出した。けんじさんが両手で受け取って、まずネックの方を天井に向けて、目をほそめながらサーっと視線を走らせた。それからボディを引っくり返して、裏も見た。フレットのあたりを指でなぞって、ぼくには読めない表情でうなずいた。
「弦高、高いな。ネックも反ってる」
そう言ってから、「弾いてたんか」と聞いた。
「ちょっと」とぼくは答えた。「音がなんか変で」
「変だろうなあ、これは」
けんじさんがギターを作業台に持っていった。ぼくはカウンターの前に立ったまま、その背中を見てた。
けんじさんはまずヘッド側の小さいカバーを外して、中を覗いた。レンチを手に取って、細いところに差し込んでゆっくりと回す。「カリッ」という小さい音。それからもう一度。また「カリッ」。その間、けんじさんは何も言わなかった。ぼくも何も聞かなかった。
少し待ってから、けんじさんがネックを持ち上げて目の高さで見た。「もうちょい」と言って、また回した。ミシ、という木が鳴いたみたいな音がした。
ぼくはびくっとした。
「割れたりしない?」
「これくらいなら大丈夫だよ」
あっさりそう言って、けんじさんはもう一度目で確認して、それで終わりらしかった。ハードケースに括りつけてきた新しい弦のセットを「あ、これか」と手に取って、すぐ作業台に置いた。
けんじさんがネックのいちばん上に指を当てた。弦が細い溝に収まってる、白いパーツのところ。
「ここ」とけんじさんが言った。「ナット。これプラスチックだな。音が鈍くなるんだよ」
「そこも直すんですか」
「直すよ」
それだけ言って、けんじさんは小さいハンマーみたいなのを取り出した。コン、と軽く叩いた。コン。コン。それから「パキッ」という音がして、白いパーツがはずれた。
代わりに出てきたのも白いもので、少し黄味がかってた。それをやすりで削り始めたとき、匂いがした。
なんか、肉っぽい。焦げてる感じ、でも焦げてるというより、もっとたんぱく質みたいな。
「何の匂い?」
「骨」
「え」
「牛骨だよ。こっちの方が音がいい、弾いてみれば分かると思う」
ぼくは何も言えなかった。骨を削ってギターに使う、という話を聞いたのはそれが初めてで、なんか知らない場所に踏み込んだような感じがした。シャリシャリという乾いた音が続いてた。白い粉がうっすら舞って、作業台に積もっていった。
新しいナットが収まってから、けんじさんはギターをひっくり返した。ボディの下の方、弦が乗ってる白いパーツを指で叩いた。
「次はここ。ブリッジ。これも削る。弦高が高すぎるんだ。だから押さえるのにやたら力がいる」
また削る音が始まった。さっきと同じシャリシャリというやつ。でも今度の方が少し荒くて、白い粉の量も多かった。けんじさんは削っては弦を仮に張って確認して、また外して削って、を繰り返してた。その間も何も言わなかった。ぼくは邪魔しないように、ケースのそばに立ってた。
「フレットもそのうちだな」
唐突にそう言った。
「え、どういう——」
「そのうち打ち直した方がいいね。今すぐじゃないけど」
それだけで、続きはなかった。ぼくはフレットを打ち直す、というのがどういうことなのかさっぱりわからなかったけど、「そうなんだ」以外の返し方も思いつかなかった。
けんじさんが弦を張り始めた。
古い弦を全部外して、新しいのをペグに通して、少しずつ張っていく。ペグを回すたびに金属の音がして、弦がどんどん張ってきた。チューナーを使いながら、六本全部合わせていく。ぼくが一本合わせるのに三分くらいかかるやつを、けんじさんは一本二十秒くらいでやってた。
「弾いてみ」
そう言って、けんじさんはギターをぼくに渡した。
ぼくはギターを受け取った。なんか、軽くなったみたいな感じがした。実際には重さは同じはずなのに。
Gコードを押さえてみた。
弦が指に当たった。前より全然柔らかい。さっきまでのやつは弦を押し込む感じだったのに、今は触れてる感じがする。弦が指板に近い。
弾いた。
音が出た。
「ぼよん」じゃなかった。
ちゃんと和音だった。バラバラじゃなくて、まとまって出てきた。余韻がある。音の輪郭がある。G、というか、「じゃん」に近い何かが出てきた。ぼくはしばらく呆けたみたいに、その音が消えるのを聞いてた。
もう一回弾いた。
また同じ音がした。
「なんで」とぼくは言ってた。
「なんでって、弾きやすいようにしただけ」
「でもさっきと、音が全然——」
「だから。ネックが反って、弦高が高すぎたんだ。指のせいじゃなくて、ギターの状態が悪かっただけ」
けんじさんはそう言って作業台を片付け始めた。白い粉を払って、道具を戻す。それだけで、もうこっちは見てない。
指のせいじゃない。
ぼくは何度も弾いてた。G、C、G、C。前はコードチェンジするたびに音が詰まってたのに、今は切り替えても音が続いてる。ちゃんと音があるまま動ける感じ。弦が指板に近くて、少し触れれば音が出る。
なんで今まで「ぼよん」だったのか、ようやくわかった。
でも、なんかそれが素直に嬉しいとも言えなくて。指のせいじゃなかったとして、じゃあそれはぼくが上手いってことなのかというと全然そういう話でもなくて。正しい音がちゃんと鳴ったとして、次に何が来るのかもわからない。
「これ、お父さんが使ってたやつ?」
声に出してから、なんで聞いたんだろうと思った。
「そうだな」
けんじさんは振り返らないまま答えた。「よく弾いてたよ」
それだけだった。
もっと聞こうとしたけど、何を聞けばいいのかわからなくて、ぼくはまたGを弾いた。
「じゃん」という音が店の中に広がって、消えた。
外はもう夕方で、引き戸の向こうが橙色になってた。弦の振動が指先にまだ残ってた。
ぼくは少し、このギターのことをもう少し知りたいと思った。
音のことじゃなくて、もう少し別の何か。うまく言えないけど、それだけが確かにあった。