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晴れた日曜日

父のギター

晴れた日曜日

Cを押さえて、Gに切り替えて、Dを押さえて、Em7・Dに移る。

Em7・Dがうまく決まらない。1弦と2弦は3フレットに固定したまま、人差し指と中指を5弦と3弦の2フレットに置く——けんじさんに教わったとおりにやれば難しくないはずなのに、まだたまに弦が詰まる。C、G、Dは最近ましになってきたのに、Em7・Dだけまだ別の課題みたいな顔をしてる。

「じゃん、じゃん、じゃん、ぼよん」

ぼよんがEm7・Dのところだ。いつも。

もう一回。ゆっくりでいいから、ていねいにやる。C、G、D、Em7・D——

「じゃん、じゃん、じゃん、じゃん」

あ。

四つ全部ちゃんと鳴った。ぼくはそのままフォームを崩さずに、もう一度同じパターンを繰り返した。また鳴った。C、G、D、Em7・D。それぞれ違う和音で、でもバラバラじゃなくて、なんかつながってる感じがあった。


Dコードを覚えたのは、けんじさんのひとことがきっかけだった。

叔父さんに直してもらったあの日、ギターを受け取ってケースに仕舞おうとしてたとき、けんじさんが言った。

「Dも覚えたら弾ける曲、増えるよ」

「D?」

「コード。G、C、Dと、もう一個。四つあればこの曲は弾ける」

ぼくは「四つで?」と思ったけど、口には出さなかった。「そんなんでいいんですか」みたいな返し方だとなんか失礼な感じがしたから。

けんじさんは棚のほうに向きを変えながら、「ポップスならたいていいける」と言った。押しつけがましくなくて、ただ事実を言ってるみたいな感じだった。

「たとえばどんな曲ですか」

「なんでもあるよ。そうだな——Taylor Swiftとか」

「え、あの人の曲?」

「We Are Never Ever Getting Back Together。みんな知ってる曲だろ」

「——知ってるかもしれない」

なんか聞いたことある曲名だった。テレビか何かで聞いた、気がする。有名な洋楽、ということは知ってる。

「C、G、D、Em7・D。その順番で繰り返すだけ」

けんじさんはそう言ってから、「1弦と2弦は全部のコードで3フレット押さえたままでいい。ここを固定して、残りの指だけ動かす」と続けた。

「固定?」

「そう。コードが変わっても、ここは動かさない」

けんじさんがさっとギターを手に取って、ワンフレーズだけ弾いてみせてくれた。1弦と2弦の指が全然動かないのに、他の指がすっと動いてコードが変わった。ぼくは思わず「あ」と声が出た。

「それだけ覚えれば最初は十分」

帰り道、スマホで曲名を調べた。聴いてみたら、あ、これか、という感じだった。耳には入ったことがある。ポップで、テンポが良くて、ぼくが普段聴く音楽とは少し違うけど、嫌いじゃない。わかりやすくて、むしろそれがよかった。

C、G、D、Em7・D。けんじさんが言ったとおりの4コードだった。1弦と2弦は全部3フレット固定で、残りの指だけ動かす。それだけ覚えれば入口には立てる。

次の日から練習を始めた。


Dのフォームを覚えるのに三日かかった。最初は指が全部違う方向を向いて、弦が詰まってばかりだった。「ぼよん」の量はこの一週間でたぶん千回を超えてる。

けんじさんにギターを直してもらってから、ぼよんの「質」が変わった、とぼくは思う。

以前のぼよんは本当に音の体をなしてなくて、ただ空気が漏れるみたいな音だった。でも今のぼよんは、和音の形はしてる。ちゃんと三つの弦が鳴ってて、ただ決まりきらないだけ、という感じ。その差がわかるようになってきたのが、なんか不思議だった。以前はそもそも「じゃん」と「ぼよん」の違いが全然わからなかったのに、今は自分の手でその差を感じながら弾いてる。

今日みたいに四つ全部「じゃん」になる瞬間が、少しずつ増えてきた。

もう一個、気になりはじめたことがあった。何度も繰り返してるうちに、Dを弾くたびに一番低い弦の音がなんかうるさい、という感じになってきた。最初はそんなこと気にもしなかった。ぼよんをじゃんにするので頭がいっぱいだったから。でも何十回か続けてるうちに、その低い音だけ引っかかるようになった。間違いではないのかもしれないけど、そこだけ浮いてる気がして。

もう一度、通しでやってみる。

C、G、D、Em7・D——

なんかリズムに乗れてる気がする。コードを切り替える瞬間に、少しだけ間ができる。でも前みたいに完全に音が止まるんじゃなくて、切り替えながら音がまだ残ってる感じで次に移れる。

曲のどのへんをやってるか、頭の中で流れてる。

あ。

なんか、曲になってる。

ぼくは弾きながら、少し呆けた感じになった。弾くのをやめなかった。C、G、D、Em7・D。手が止まったら終わる気がして、そのまま続けた。うまくはない。コードチェンジで音が乱れるところが何箇所かある。でも、曲としての輪郭みたいなものが、なんとなくある。あの曲だ、ってわかる感じ。ぼくが弾いてる音の並びが、知ってる曲と同じ形をしてる。それがなんかすごく変な感じがした。ぼくがやってることが、ちゃんと「音楽」として成立してる瞬間がある、ということがまだ信じられなかった。

いつまでやってたんだろう。

気づいたら部屋が暗くなってた。スマホの時計を見たら、二時間経ってた。全然気づかなかった。ぼくはギターを抱えたまましばらく動かなかった。二時間。そんなに時間が経ってたとは思わなかった。正直、痛くなってきてた指先のことも、ちゃんと意識してなかった。

夢中になってたのかな、とぼくは思った。

そういう自覚がないまま、なんか気づいたら二時間やってた。いや、やってたというより、気づいたら終わってなかった、という感じが正しい。やめるタイミングを探してたわけでも、頑張ろうとしてたわけでもなくて、ただ次のコードチェンジをやって、また次をやって、気づいたら暗くなってた。

なんかこういうの、久しぶりだった気がする。スマホをいじってても、ゲームをやっても、こういう感じにはならなかった。「なんか気づいたら二時間経ってた」みたいなことが、最近あんまりなかった。


ギターを膝に置いて、少し休んだ。

指先に弦の跡が三本残ってた。押さえてた場所が白く凹んでる。最初の頃は「痛い」ってはっきりわかったのに、今は「感覚が鈍い」みたいな感じになってきてる。タコが少しずつできてきてるんだろうか、と動画で言ってたのを思い出した。鍛えられてきてる、かもしれない。

だからといって何かが解決したわけじゃない。Dのコードはまだぐらつく。曲として弾けるかというと、たぶん人に聞かせられるレベルじゃない。うまくなったという感じもしない。

ただ、「曲になってる」瞬間があった、それだけだ。

でも、それだけがなんか変なくらい残ってる。

ずっとどこかにあった重みが、今日は少しだけ薄い気がした。なんでかはわからない。弾けたからとか、何かが解決したとかじゃなくて、ただ少し軽い。

「続けられるかも」という気持ちが、今日初めてちゃんとあった気がする。続けるかどうか迷ってたかというと、そういうわけでもないけど、「次も弾きたい」という気持ちがこんなにはっきりするのは初めてだった。初めてこのギターを手に取った日は「また触るかもしれない、触らないかもしれない」という感じだった。今日は違う。また弾く、という気がする。なんとなくじゃなくて。

窓を開けたら、空が少し広かった。雨じゃない夜の匂いがした。梅雨が終わりに近いのかもしれない、とぼんやり思った。

もう一回弾く。

Cから始める。G、D、Em7・D。ゆっくりでいい。音を確かめながら。

「じゃん」と鳴る。「じゃん」と続く。「じゃん、じゃん」になる。

次はどのコード覚えようかな、とぼくは思った。

自分でそういうことを考えてる、というのが少しだけ新鮮だった。けんじさんに「これを練習して」と言われたわけじゃない。ぼくが、次のことを自分で考えてた。

考えながら、手は動き続けてた。