奥の部屋
ガラス戸の前まで来たとき、ちょうど引き戸がガラッと開いた。
「じゃあケンジさん、また来ます!」
出てきた人がこちらをちらっと見て、少し驚いたように通り過ぎていく。
シーさんの顔を見て、その人は少し目を細めた。
「あ、シーさん!お疲れっすー」
「やあ」
それだけで通じ合うような、短い挨拶。あの楽器屋に集まる人たちの、いつもの空気。
「よう!早いな!感心感心!奥の部屋だから!」
引き戸の奥から、ケンジさんの大きな声が飛んでくる。
急に声をかけられて、わたしは思わず背筋を伸ばした。
「は、はい、ありがとうございます」
やっぱり声が少し上ずった。さっき玄関で慌てていたのを、まだ引きずっているのかもしれない。ミキに気づかれていないといいけれど。
ツン、とミキの指先がわたしの肩に刺さる。
「さあ、奥の部屋だってよ?」
すぐ隣で、案の定ニヤニヤとした顔が覗き込んできた。
「……わかってるよ」
わたしはギグバッグの紐をもう一度強く握り直して、おずおずと店の奥へ向かった。
初めて入る部屋だった。
壁には、いろんな形や色のギターがいくつも掛けられている。その横には工具みたいなものも整然と並んでいて、なんだか職人の作業場のような、でもそれだけじゃない、秘密基地みたいな独特の匂いがした。真ん中には小さなテーブルと、それを囲むように椅子が四脚。外から見ていたときには分からなかった空間がそこに広がっていて、わたしは背中の重みも忘れて、しばらく部屋の中をぐるっと見回した。
「シーさん!冷蔵庫から何か出してあげてくれ」
カウンターの方から、ケンジさんの声が追いかけてくる。
シーさんは慣れた手つきで小さな冷蔵庫を開けて、少し首を傾げてから言った。
「お茶か……お茶しかないけど、いいよね?」
「全然OK!」
ミキが弾むような声で即答する。
「大丈夫です、ありがとうございます」
わたしも少し遅れて、今度は普通に声を出すことができた。
「じゃあ少し待っててね。もうすぐ来ると思うから」
シーさんがペットボトルをテーブルに置きながら、優しく微笑む。
あぁ、なんでこんなに心臓が速く動いているんだろう。
ミキはさっそくキャップを開けて、緊張なんて一ミリもしていない様子でお茶を飲んでいる。その変わらないマイペースさが少し羨ましくて、わたしはゆっくりと、テーブルの椅子に重たいギグバッグを下ろした。
壁に並んだギターを、二人でなんとなく眺める。
「これって高いのかな」
「形が全部違うね」
「これ、弦が六本じゃないよ?」
ミキと顔を見合わせながら、分からないなりに、あれやこれやと小声で話していた。不思議と、そうやって言葉を交わしているうちに、少しずつ部屋の空気に自分の身体が馴染んでいくのが分かった。
ガラガラ、と外の引き戸が鳴る音がした。
「ウィーっす」
あの、少し低くて体格の良い声。
お父さんが「ギターヒーロー」と呼んでいた、ヒロくんのお父さんだ。わたしは持っていたペットボトルのラベルを指先でじっと見つめたまま、小さく息を止めた。
「もう来てるよー」というケンジさんの声。
「早いね〜!いいじゃない。シー君も付き合いか?」
「そうですね。まあ、私も少し暇をしていたからいいんだけど。ははは」
三人のやりとりは、長年の間合いで進んでいく。こちらが口を挟む隙もないくらい自然で、大人たちの楽しそうな笑い声の端っこに、なんだか少しだけ触れてみたくなるような、そんな温かさがあった。
「仲がいいよねぇ、みんな」
ミキがボトルを机に置いて、ぽつりと言った。
「うん、こんな感じ、いいよね」
答えてから、なぜかわたしの頭の中に、あの日の三人の少年たちの姿が浮かんでいた。夏の眩しい光の中を、ケンジさんのお店に向かってわいわいと歩いていった、あの三人。
「私たちも、あんな仲間作りたいよね。奏と私、それから新しい人たち!絶対に楽しそう」
「そうだね、楽しそう!」
今度は、言葉が驚くほど自然に口から出た。
自分で自分に、ちょっとびっくりする。
「おお!だいぶ落ち着いてきたじゃない。これなら大丈夫かな?」
ミキがわたしの肩をポン、と軽く叩く。
「ありがとう、ミキ」
「なになに、奏と私の仲でしょ!ギター、めちゃくちゃ楽しみだね!」
「どうも!奏ちゃんとミキちゃんだよね?」
あの人が、がっしりした体躯で奥の部屋に入ってきた。
さっきまで外で三人で話していたときとは少し違う、ちゃんとした「先生」としてのトーン。でも、親しみやすい笑顔はそのままだった。
「まあ、なんだ、緊張しないで大丈夫だから。座って」
「はい」
二人同時に声を揃えて、椅子に座り直す。あの人は自然に奥の椅子へ腰を下ろして、大きな手をテーブルの上で組んで、こちらをまっすぐ見た。
「テツヤって言います。みんなからはテツヤさんとか、テツさんとか呼ばれてるから、好きに呼んでくれ」
ミキが少し身を乗り出して、間髪入れずに言った。
「先生でもいいですか?」
「まあ、先生って柄じゃないけど……呼び方は任せるよ」
「じゃあ、先生で!」
ニコッと満面の笑みを浮かべるミキに、テツヤさん——いや、先生は少したじたじとした風に頭を掻いた。その様子がなんだかおかしくて、わたしの口元からも、思わずクスッと小さな笑いがこぼれてしまった。気がつくと、部屋の中の張り詰めた空気はすっかり消えていた。
「あの」
気負わずに、すっと声が出た。
「チューニング、お家でやろうとしたんですけど、できなかったんです。なんか怖くて……」
家で一人で悩んでいたときは、あんなに言葉に詰まっていたのに。今の自分の声は、思っていたよりもずっとスムーズに響いた。
「ネットで調べたんですけど、針がどうしても合わなくて。これ以上回したら、弦が切れそうで不安で」
「あー、最初は怖いよな」
テツヤ先生は深く頷いてくれた。その大きな手が、なんだかすごく心強く見える。
「でも大丈夫。滅多なことじゃ切れないから。そのかわり、最初のうちは音の感覚を覚えておかないとダメだな。巻きすぎたら、そりゃ切れるけどさ」
そう言って笑うと、テツヤ先生はすぐに立ち上がった。
「どれ、ギターを出してみて。ちょっと待っててね」
カウンターの方へ、大きな声をかける。
「ケンジ!チューナー貸してくれ」
「はいよ、これね!」
ギグバッグのファスナーのツマミを指先で掴みながら、わたしは胸の奥で、ほんの少し長い息をついた。
いざここに来て、目の前にしてみると、家を出るときにあんなに背中で重たかった不安は、どこかへ消えていた。
ホッとした。これなら、大丈夫そうだ。