始まりの火曜日
「行ってくるね」
声が少し上ずった気がして、自分で自分の声に驚く。
ギグバッグの肩紐を両手でぎゅっと整えながら、玄関に立つ。
今日だけで何度、クローゼットの前で着替えただろう。数えないことにした。
「まだ時間早くないの?」
振り返ると、お母さんがリビングから玄関まで出てきて、壁にそっと肩を預けていた。
「お父さんも仕事の帰りに寄るって言ってたけど、十八時からでしょ?」
手にしたふきんでマグカップを拭きながら、なんだかんだと心配そうにこちらの様子を窺っている。
「まあ、多少早いかも……」
スマホの画面を見ると、十六時五十五分だった。
一時間以上ある。
分かっているけれど、どうしても部屋にいると落ち着かなかった。こんな感覚は、初めてかもしれない。
試験前でも、生徒会の行事の前でも、いつもなら完璧に準備をして、確認をして、それで終わりだった。今回もスマホで調べられるだけ調べたつもりだ。でも、ネットの画面をいくらスクロールしても、具体的なことは何も出てこなくて、結局「先生によって教え方は全然違う」ということしか分からなかった。調べれば調べるほど、答えではなくて、よくわからない余白だけが増えていく。
「一応初日だし、先生より先に行って待ってた方がいいかなって」
「そう? 別にいいんだけどさ」
お母さんはふきんを動かす手を止めて、わたしの背中の黒いケースをじっと見つめた。
「気をつけて行きなさいよ。慌てないで」
慌ててなんていない。
本当に、慌ててなんていないのに。
「もう、小学生じゃないんだから大丈夫」
「だといいけど……奏、それお母さんのスニーカーだよ」
え、と思って足元を見る。
わたしの足には、お母さんの白いスニーカーがすっぽり収まっていた。
すぐ隣に、わたしのいつものやつが並んでいる。同じメーカーの、ほとんど同じ色。どうして気づかなかったんだろう。
しゃがみ込んで、無言で紐を解く。お母さんの視線が頭の上に載っているのが分かって、自分の指先がなんだかすごく不器用になったみたいにうまく解けない。
つま先をトントンと地面に叩きつけて、急いで自分のスニーカーに足を突っ込んだ。
「お母さんがじっと見てるからだよ! じゃあ、行ってきます!」
「はいはい、行ってらっしゃい」
背後でお母さんが小さく笑いながら、それでもドアが閉まるまで見送ってくれる気配を置き去りにして、逃げるように外へ出た。
いつもの通学路なのに、ギグバッグを背負っているだけで景色が全然違って見えた。
背中がやけに重くて、なんだかすごく目立っている気がする。すれ違う人が、みんなわたしの背中をちらっと見ているような気がする。たぶん、本当は誰も見ていない。それは頭では分かっている。それでも、どうしても背中に意識がいってしまう。
こういう風に、周りの目を妙に気にするのも、なんか初めてだ。
学校の鞄を持っていても、塾のリュックを背負っていても、わたしはただの「いつも通りのわたし」だった。でも、この黒いケースを背負っているだけで、わたしは勝手に「ギターを習いに行く人」にされてしまうような気がした。
家で一回もちゃんと弾けていないのに。チューニングの針すら、怖くて合わせられなかったのに。
そんなことをぐるぐると考えながら歩いているうちに、いつの間にかケンジさんのお店が見えてきた。
夏の夕方。まだ日は高くて、半袖の腕に西日を浴びるとじんわりと暑い。
ガラスのついた古い引き戸は閉まっていて、中の様子はよく見えないけれど、誰かの気配だけが何となく伝ってくる。
深呼吸をひとつする。
お父さんも後から来るし、一度お店に入ってしまえば、案外普通に座っていられるかもしれない。今日は大丈夫、いけるかも。
そう思った、その瞬間だった。
「奏! 早いね!」
背中の後ろから、いきなり大きな声が降ってきた。
びっくりして振り返ると、ミキがニヤニヤしながら坂道を駆け上がってくるところだった。
「ミキ? どうしたの、塾は?」
「どうしたのって、シーおじさんに頼み込んでちょっとだけ抜け出してきたの! 息抜き、息抜き。勉強はちゃんとやってるから怒らないでよ」
ミキの後ろから、シーさんも少し小走りで追いついてくる。
「やあ、奏ちゃん。ミキちゃんに急に引っ張られてね。まあ、私も少し暇をしていたからいいんだけど」
シーさんは片手で文庫本を持ったまま、少し息を切らせて苦笑いしていた。けれど、その目はなんだか楽しそうだった。
「じゃあ、行こ!」
ミキがわたしの腕を引く。
一人で、背中の重さにドキドキしながら一歩を踏み出そうとしていたのに。
結局、いつもの賑やかな声に挟まれて、三人で古いお店の引き戸へと歩き出した。