まだ、何者でもない頃に
引き戸がガラガラと鳴った。
振り向くと、シーさんだった。
「やあ、ヒロくんも来てたのか」
「はい……今日は、友達を連れてきました」
自分でも、思ったよりちゃんと言えた。
「賑やかでいいね」とシーさんが笑った。「いつもは静かなのにな?」
ケンジさんが「おい、俺は暇じゃねえぞ」と言って、また笑い声が起きた。
シーさんが、さっきミキが話しかけてきた女の子の方に目を向けた。
「ミキちゃんのお友達の……」
「奏(かなで)といいます」
その子が言った。
奏。
さっきから気になってた子の名前が、やっと分かった。特に理由はないけど、少し頭に入った。
しばらくして、ケンジさんがシーさんに言った。
「この子さ、エアロスミスが好きなんだってよ。何かうんちくでも教えてやれよ」
「ははは、相変わらず無茶振りだなぁ」
シーさんが少し考えるように視線を落とした。
「エアロスミスの曲でね、『ママ・キン』っていう曲があるんですよ。ファーストアルバムに入っている、スティーヴン・タイラーが書いた曲なんだけど……彼、よっぽどその曲が気に入ってたみたいでね。タイトルのタトゥーを自分の腕に彫ったっていう話があるんです」
「え?」と奏が言った。
「ただ——当時の彼は腕が細すぎて、『Mama Kin』って全部入らなかったらしくてね。結局『Ma’ Kin』って縮めて彫ったそうなんです」
ケンジさんが声を上げて笑った。
「それでも彫っちゃうくらい、自分の作った曲に命を賭けてたんですよね」
シーさんが、少し遠くを見るような目をした。
「まだ、何者でもない頃に」
その言葉が、しばらく頭の中に残った。
まだ、何者でもない頃に。
ぼくも今、何者でもない。ギターを始めたばかりで、コードをいくつか押さえられるだけで、自分が何になるかなんて全然わからない。
でもあの人は、それでも彫ったんだ。
ぼくはギターをケースに戻しながら、窓の外の光が少し傾いていることに気づいた。
夏の午後が、ゆっくり動いていた。
