石の欠片
練習が終わると、いつも体が少し軽い。
弾いてる間は気づかないけど、終わったあとにわかる。肩のあたりに力が入ってたんだな、って。ヒロの家の玄関で靴を履きながら、俺は指を一回だけ握って、開いた。弦の感触が、まだ指先に薄く残ってる。
「またな、ヒロ」
タクヤが先に外へ出て、自転車のスタンドを蹴った。ヒロは玄関のところに立って、片手を上げた。
「うん。また明日」
それだけ。ヒロはいつもそれだけだ。よくしゃべるほうじゃない。でも今日の「また明日」は、ちょっとだけ、いつもより前に出てた気がした。気のせいかもしれないけど。
俺も自転車にまたがって、タクヤのあとを追った。
夕方の道は、まだ明るかった。
夏の日は長い。六時を回っても、空の端のほうがオレンジに残ってる。田んぼのあいだの道を走ると、稲のにおいと、どこかの家の夕飯のにおいが混ざって流れてきた。
「今日さ、二回合っただろ。イントロ」
前を走るタクヤが、振り返らずに言った。
「合ったな」
「な。昨日は一回だったのに。二回だぞ二回」
タクヤは嬉しいと、こうやって同じことを二回言う。俺は「わかったよ」とだけ返した。でも、本当は俺も同じことを思ってた。昨日より今日のほうが、音のそろう瞬間が、ちょっとだけ長かった。
口には出さない。出すとタクヤが調子に乗るから。
緑が丘を抜けて、駅のほうへ下っていく。線路の手前で東口に渡ると、新音羽商店街のアーケードが見えてきた。夕方のこの時間は、人がそこそこ歩いてる。仕事帰りの大人とか、塾に行く小学生とか。
「俺こっちだから」
タクヤがアーケードの入り口で止まった。家がこっちの方向なのだ。
「おう」
「明日も朝からだかんな。寝坊すんなよ」
「それお前が言うか」
タクヤは「言うわ」と笑って、片手を上げて、人混みのほうへ消えていった。あいつはいつも、こういう別れ方をする。振り返らない。
俺は一人になった。
本当は、まっすぐ家に帰ればよかった。
俺の家もタクヤと同じ東口側だ。アーケードを抜けて、もう少し行けば着く。でも俺は、自転車のハンドルを逆に切っていた。
線路を、西口のほうへ。
理由は、あるようなないような感じだった。ピックが、そろそろ減ってきてた。練習でずっと弾いてるから、先のとこが丸くなってきて、たまに弦を滑る。買い足してもいいかな、とは思ってた。思ってたけど——それだけなら、明日でもよかった。
なんで今日なんだろう、と自分でも思いながら、俺はペダルを踏んだ。
西口に渡ると、空気が変わる。同じ街なのに、線路一本で全然違う。東口のアーケードが明るいぶん、西口の音羽商店街は、夕方になると急に静かになる。シャッターの降りた店が並んでて、開いてる店のほうが少ない。
その商店街の、いちばん端。
ガラスの引き戸の向こうに、まだ明かりがついてた。
「ギターショップ 北野」。
引き戸を開けると、からから、と乾いた音がした。中は相変わらず、ギターとアンプと、なんかよくわからない機材で埋まってる。古いにおいがする。木と、金属と、ほこりの、混ざったにおい。嫌いじゃない。
「お、ユウジくんか」
奥から、ケンジさんが顔を出した。手にはベースを持ってた。ボディが茶色で、ぼんやり光ってる。たしか、いつも自分で弾いてるやつだ。
「こんばんは。ピック、あります? いつもの」
「あるある。そこの箱、漁ってみ」
俺はレジの横の、小さい箱を覗いた。色とりどりのピックが、ごちゃっと入ってる。同じ硬さのを何枚か選んで、手のひらに乗せた。
ケンジさんは、椅子に座ったまま、ベースをぽろん、と鳴らした。低い音が、店の床を這うみたいに広がった。
「ヒロんとこ、練習帰りか」
「はい。今日、イントロが二回合いました」
言ってから、タクヤと同じこと言ってる、と気づいた。ケンジさんは「ほー」と、ちょっと嬉しそうな顔をした。
「二回か。たいしたもんだ。この短期間で、よくやってるよ、君ら」
その「君ら」の言い方が、なんか、こそばゆかった。
ピックの代金を払ったあとも、俺はなんとなく、すぐには帰らなかった。
ケンジさんがベースを弾いてるのを、見てた。指の動きが、滑らかだった。俺らとは全然違う。何十年もやってる人の手だ、ってわかる動き。
「ケンジさんも、昔バンドとかやってたんですか」
聞くつもりもなかったのに、口から出てた。
ケンジさんは、弾く手を止めて、少しだけ笑った。
「俺はなあ。ちょっとかじった程度だよ。本気でやってたのは、兄貴のほうだ」
兄貴。ヒロのお父さんのことだ。テツヤさん。譜面を作ってくれた人。俺らに「四小節弾いたら入ってこい」って言った人。
「ヒロの父さん、昔、プロ目指してたんですよね」
「そうそう。地元じゃちょっと知られてた。バンドやっててな」
ケンジさんは、ベースを膝に置いたまま、遠くを見るみたいな目をした。
「バンド名、なんていうか知ってるか?」
俺は首を振った。知らなかった。ヒロも、たぶん言ったことない。
ケンジさんは、ちょっともったいぶるみたいに、間を置いてから言った。
「『Crossbarn Stonehouses』」
その名前を、俺はうまく聞き取れなくて、もう一回聞き返した。
「クロスバーン……?」
「Crossbarn Stonehouses。石の家、って意味のほうな」
ケンジさんは、レジの裏から紙きれを一枚取って、ボールペンでさらっと書いてくれた。乱暴な字で、でも、ちゃんと読めた。
Crossbarn Stonehouses.
「どういう意味なんですか、これ」
俺が聞くと、ケンジさんは、ちょっと照れたみたいに鼻の頭をかいた。
「兄貴が言うにはな。——どんなことがあっても、決して揺らがない、頑丈な石の拠点。そこで、自分たちの人生とか、音楽とかが、交差する。そういう場所でありたい、って。そういう意味らしい」
言ってる途中で、ケンジさんは「まあ、若い頃に考えた名前だからよ」と笑った。照れ隠しみたいに。
でも、俺は笑えなかった。
なんか、いいな、と思った。
揺らがない、石の拠点。そこで、交差する。
俺はその紙きれを、もらってもいいですか、と聞いた。ケンジさんは「そんなもん、いくらでも持ってけ」と言って、ベースをまたぽろん、と鳴らした。
店を出ると、外はもう、ほとんど暗くなってた。西口の商店街は、しんとしてた。俺はポケットの中の紙きれを、一回だけ、指で確かめた。
翌日。
ヒロの部屋で、練習が一区切りついたところだった。タクヤは床に寝転がって、天井を見てる。ヒロは、ギターを抱えたまま、弦をなんとなく指でなでてた。お父さんからもらった、あの古いギター。
俺は、昨日の紙きれのことを、ずっと考えてた。
考えてたら、口から出てた。
「なあ。バンド名、決めないか」
タクヤが、がばっと起きた。
「お、いいじゃん! 決めようぜ! 俺、考えてきたやつあるんだよ」
「お前、いつのまに」
「昨日の夜! ノートに書いた!」
タクヤはポケットからスマホを出して、メモを読み上げた。「ドラゴン・サンダーズ」「灼熱ギター団」「チーム・タクヤ」——。
「最後のなんだよ」
「いや、これは冗談」
ヒロが、ぼそっと「全部冗談に聞こえる」と言った。タクヤが「うっせ」と返した。
俺もいくつか言ってみた。三人だからスリーピース、で「トライアングル」とか。住んでる街の名前から取るとか。でも、どれもピンとこなかった。言った瞬間に、もう違うな、ってわかるやつばっかりだった。
名前って、難しい。
しばらく、三人とも黙った。
タクヤがまた寝転がった。ヒロは弦をなでてた。窓の外で、蝉が鳴いてた。
俺は、ポケットに手を入れた。昨日の紙きれが、まだ入ってた。
「……ヒロ」
「ん?」
「お前の父さんのバンド、名前知ってる?」
ヒロが、顔を上げた。
「いや……知らない。聞いたことない」
俺は紙きれを出して、開いた。乱暴な字の、ケンジさんの手書き。
「『Crossbarn Stonehouses』。ケンジさんが教えてくれた。昨日、店寄ったとき」
ヒロが、紙を覗き込んだ。タクヤも、寝転がったまま首だけこっちに向けた。
「石の家、って意味なんだって。どんなことがあっても揺らがない、石の拠点。そこで、人生とか音楽が、交差する。——そういう場所でありたいって、つけた名前らしい」
ヒロは、何も言わなかった。でも、紙を見るヒロの目が、いつもと違った。父さんの、知らなかった一面を見たときの目。
「で、俺、思ったんだけど」
俺は、昨日からずっと頭の中で転がしてた言葉を、ここで出した。
「俺ら、まだ石の家には全然なってない。建ってもいない。でもさ、その石の、ちっちゃい欠片くらいには、なれるんじゃないかって」
「欠片」
ヒロが、繰り返した。
「Stonechip。石の、欠片。——『Stonechip Brothers』。どう?」
部屋が、しん、とした。
タクヤが、ゆっくり起き上がった。さっきまでのふざけた顔が、消えてた。
「……ストーンチップ・ブラザーズ」
声に出して、もう一回言った。
「いいじゃん。なんか、それ、いい」
ヒロは、まだ紙を見てた。それから、ぽつりと言った。
「父さんのと、つながってるんだ」
「うん。勝手につなげた。……ダメか?」
ヒロは、首を横に振った。ゆっくり。
「ダメじゃない」
それだけだった。でも、その「ダメじゃない」は、昨日の玄関の「また明日」より、もっと前に出てた。今度は、気のせいじゃなかった。
タクヤが「決まりだな!」と立ち上がって、なんでか俺の肩をばしばし叩いた。
「Stonechip Brothers! 俺ら、今日から名前ついたぞ!」
「痛い。叩くな」
ヒロが、ちょっとだけ笑った。本当に、ちょっとだけ。
俺は、紙きれをもう一回畳んで、ポケットにしまった。
石の家には、まだ遠い。建て方も知らない。でも、欠片なら、もう三つ、ここにある。
蝉の声が、また一段、大きくなった。