火曜日までの距離
自分の部屋のドアを閉めると、それまで背中に張り付いていたリビングのテレビの音が、一枚の木を隔てて遠くなった。
部屋の隅、ベッドの足元に、黒いケースが立てかけてある。
お父さんたちは「ソフトケース」と呼んでいたけれど、ミキが「ギグバッグって言うらしいよ」と教えてくれた。
さっきまで、二人はリビングでファスナーを開けてわたしの何倍も大きな声をあげていた。お母さんが淹れてくれた麦茶のガラスコップが結露して、テーブルを濡らしながら、あんなに賑やかだったのに。
今は、静かだった。
床に直接座り込んで、ギグバッグの長いファスナーを引く。ジジジ、と重たい金属の音が静かな部屋に響いた。
中から、黒くて白いピックガードのついたそれを取り出す。
膝の上に載せると、太ももにひんやりとした硬い質感が伝わってきた。思っていたよりも、ずっと重い。
あの夕方、すれ違った男の子が背負っていたのも、きっとこれと同じくらいの重さだったのだろう。あの熱気のある店内で、お父さんたちが楽しそうに話していたあの空気。そこから急に、この静かな四角い部屋に引き戻されたみたいで、なんだか少し落ち着かない。
その横には、一緒に持ち帰った四角いアンプがある。
上部に小さくて四角い液晶画面がついていて、『Mustang LT25』と白い文字が印刷されていた。
ケンジさんは「夜はここにヘッドホンを挿せば大丈夫だから」と言って、太いコードと一緒に黒い変換プラグを袋に入れてくれた。
わたしはスマホを床に置き、検索バーに「ギター 最初」と入力した。
画面をスクロールする。
最初に出てきたのは、持ち方と、弦の数え方だった。
イラスト付きのページには、「一番太い弦が6弦、一番細い弦が1弦」と書かれている。
定期テストなら、配点と出題傾向をまず確認する。どこから手をつければいいか、いつもならすぐに分かるのに、これは違う。教科書もシラバスもない場所で、わたしは完全に迷子になっていた。
膝の上のそれを見下ろす。自分の顔に一番近い場所にある太い弦が、1ではなく、6だった。
右手の人差し指の爪で、その6弦を上から下へ弾いてみる。
ペケ、と小さく詰まった音がした。部屋の空気が少しも震えない。
わたしは次に「エレキギター アンプ 繋ぎ方」と検索し直した。
手順の通りに、太いコードの一方をギターの底の穴にカチリと差し込み、もう一方をアンプの『INPUT』と書かれたジャックに挿す。
ケンジさんに言われた通り、ボリュームのつまみが『0』になっているのを確認してから、電源スイッチを入れた。
液晶画面が小さく青く光り、『01 FENDER CLEAN』という文字が浮かび上がる。
アンプの上の『PHONES』という小さな穴に、ヘッドホンの端子を差し込んだ。
耳を覆う黒いパッドの向こうで、微かに「サー」という電子音が聴こえ始める。
ネットの手順に従って、『TAP』と書かれたボタンを長く押した。画面が切り替わった。
もう一度、一番太い6弦を親指ではじいた。
ボーン、と、さっきとは違う、重くて深い音が耳の奥で直接鳴った。
画面のインジケーターを見つめる。
そこには当たり前のように、アルファベットの『E』とだけ表示されていた。ネットの画面には「6弦=E、5弦=A、4弦=D……」と並んでいる。
「イー、エー、ディー……」
呟いてみても、それがドレミのどれを指しているのかが分からない。
別のタブを開き、「ギター チューニング E」と検索を重ねる。いくつかページを読み進めて、ようやくそれが「ミラレソシミ」の英語の呼び名なのだと知った。
一番太い6弦が「ミ」。
ヘッドホンから聴こえる音は、まだ「ミ」には遠い、濁った低い音だった。
アンプの液晶画面の針は、真ん中よりもずっと左の、マイナスの位置で細かく震えている。
学校のテストでも、生徒会の仕事でも、わたしはいつも正解の針を真ん中に合わせ続けてきた。合格点も、周囲からの期待も、どこをどう調整すればピタリと収まるか分かっていた。
なのに、この液晶画面の針をどうやって動かせばいいのか、今のわたしには全くわからない。学年トップとか、副会長とか、そういう自分の肩書きが全部剥がされていくみたいだった。
ネックの先についているネジ——ペグを親指と人差し指でつまんだ。
少し力を入れると、ギィ、と小さな音がしてネジが動く。
弦を弾く。
ボイン。
画面の針が少しだけ右に動いた。けれど、アルファベットは『D』のままで、『E』にはならない。ミよりも低い、レの音。
もう少し回さなければいけない。
けれど、これ以上ひねったら、細い方の弦がパチンと切れてしまうのではないか。
壊してしまったらどうしよう。そんな恐怖が急に湧いてきて、指先が汗ばんで、ペグから手を離してしまった。
左手の指先で、適当な位置の金属の線を木の部分に押し付けてみる。
指の腹が細い線に食い込んで、鈍い痛みが走った。そのまま右手で弾くと、プツ、と乾いた音がしてすぐに消えた。
わたしは、ギターを抱えたまま、ベッドの側面に背中を預けた。
壁の時計が、カチ、カチ、と秒針を動かしている。
火曜日まで、あと何日あるだろう。
指を折って数えてみる。丸三日。
あの楽器屋の、カウンターの奥で楽譜の束を叩いていた、火曜日の人。
お父さんが少年の目になって「ギターヒーロー」と呼んだ、ヒロくんのお父さん。
わたしにギターを売ってくれたケンジさんへの感謝も、お父さんの嬉しそうな顔も、あの夕方にすれ違った男の子のことも、全部が頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。どうして自分がこんなにあの火曜日の場所に引き寄せられているのか、わたし自身にもよくわからない。
わたしはスマホを伏せ、膝の上の黒いボディを上から覗き込んだ。塗装された表面に、部屋の蛍光灯の白い丸が歪んで映っている。
痛む指先を親指でそっとなぞりながら、わたしは次の火曜日のことを考えていた。まだ正解の出し方もわからないまま、ただ、あの人の待つ火曜日までの距離を、じっと測るように。