火曜日、なら
「奏をコンプリートするんだからね!」
ミキのその言葉が、夏の抜けるような青空の下に、ぽんと弾けるように響いた。
楽器屋へと向かう坂道。アスファルトからは容赦ない熱気が立ち上っていて、わたしは日傘を差し直しながら、隣を歩くミキの横顔を見た。
「ちょっと、コンプリートって何よ」
苦笑いしながら言うと、ミキは日焼け止めでうっすら白い頬を緩めて、へへ、と笑った。
「言葉通りの意味だし! 小、中、高ってずっと一緒だったんだから、大学も同じところに行くの。それで奏の学生時代を全コンプ。完璧でしょ?」
「……ミキ、それ本気で言ってる?」
「本気に決まってんじゃん。進路希望、奏と同じ大学の同じ学部で出したもん」
心臓が、どくんと小さく跳ねた。
ミキがそんな風に自分の進路を決めていたなんて、今の今まで知らなかった。いつもおちゃらけていて、何でも笑い飛ばす幼馴染。
「でも、あそこ結構大変だよ? 勉強、大丈夫なの?」
「だから! 叔父さんのシーさんを召喚したわけ!」
ミキが自分の鞄の紐をぎゅっと握り直して、胸を張る。
「『夏休み初日にまた楽器屋? 勉強しなさい!』って親がうるさいからさ。シーさんに『進路の相談に乗ってもらいながら散歩してくる』って言ったら、一発で許可出た。私って天才じゃない?」
「あはは、叔父さんをダシに使ったんだ」
「人聞きが悪いな〜。作戦と言ってほしいね」
ミキはケラケラと笑う。
少し前を歩いていたお父さんが、振り返って嬉しそうに目を細めた。
「二人とも、小学校の頃から変わらないなぁ」
「あ、お父さん聞いてたの?」
「聞こえるよ、そんな大きな声で話してたら」
お父さんは楽しそうに笑いながら、「でもミキちゃん、ありがとうね」と小さく言った。
「いーえ! コンプリートのためですから!」
ミキは前を向いたまま、片手をひらひらと振った。わたしも、お父さんも、それを見てまた笑った。
古い楽器屋の引き戸を開けると、金属と木材の匂いと一緒に、聞き覚えのある低い声が降ってきた。
カウンターの奥には店主のケンジさん。そして、見たことのない体格の良い男の人が、教材用の楽譜や弦をいくつか抱えて立っていた。さらにその脇には、あのシーさんが文庫本を片手にパイプ椅子に腰掛けている。
体格の良い男の人が、こちらを振り返った。
「おお、ヒロシか! 久しぶりだな」
「あれ? 先輩! 久しぶりです!」
お父さんが声を弾ませて、一歩前に出た。
「今日は?」
「いや、うちのヒロがギター始めるって言うからさ。まずは家である程度教えることにして、その準備だよ。あいつら、放っとくと何やらかすか分かんねえからな」
「まぁ、その方がいいかもな、兄貴が見るんだからな」
ケンジさんがカウンターの中でサバサバと笑う。
お父さんは「へえー!」と驚いたように声を上げた。
「先輩が家で教えるんですか? 贅沢だなぁ、それ。あ、実はうちのカナも、ここでギター買うって言い出して……」
「え、ヒロシの娘さんも?」
先輩という人がわたしを見た。わたしは少し緊張して、お父さんの後ろで頭を下げた。
「奏です」
隣でミキも「ミキです!」と元気よく言った。
「ヒロシさんの娘さん、エアロが好きなんだってよ」
ケンジさんがニヤニヤしながら口を挟む。
「そんで、この間シーさんが『ママ・キン』のうんちく語っちゃってさ」
「いや、ケンジさんが無茶振りするからでしょ!」
シーさんが苦笑しながら本を閉じた。
「お久しぶりです、ヒロシさん。……ミキちゃん、ちゃんと義姉さんには俺がついてるって言ってあるからな?」
「さすが叔父さん! 話がわかる!」
ミキが親指を立てる。
大人たちが顔を見合わせ、どっと笑った。
お父さんが先輩の前で、すっかり「後輩の顔」に戻って楽しそうに言葉を交わしている。
その賑やかな声をBGMにしながら、わたしはゆっくりと壁の方へ歩いた。
黒いボディに、白いピックガード。
あの時、わたしの「勘」が選んだテレキャスターが、静かにそこに掛かっていた。
(ヒロくん、って言うんだ……)
あの先輩——ヒロくんのお父さんの言葉を思い出す。
この場にはいない、あの夕方にすれ違った男の子。その名前が、お父さんたちの会話越しに、ひっそり届いていた。
「奏、これだよね」
いつの間にか隣にいたミキが、黒いテレキャスターを指差して、優しく微笑んだ。
「うん」
わたしは小さく頷いた。
大学のこと。将来のこと。やりたいこと。まだ何もかもが空白のままだ。
だけど、ミキが隣にいてくれること。そして、この町に同じような男の子がいること。
それだけで、わたしの指先は、もう次のコードを探すように小さく動いていた。
「カナちゃんも兄貴に教われば?」
ケンジさんがカウンターの向こうから、思いついたようにわたしを見た。
「え?」
思わず声が裏返る。
「隔週火曜日にここでギター教室してもらってるんだ」
ケンジさんはそう言って、抱えていた楽譜の束をポンと叩いた。
「えっ、先輩……ここで教えてるんですか?」
お父さんが目を見開いて、先輩という人を見た。先輩は「まあ、頼まれたからな」と、少し照れくさそうに頭を掻いている。
「カナ、いいじゃないか!」
お父さんが急に声を弾ませて、わたしの肩を軽く叩いた。
「先輩はな、昔からお父さん達のギターヒーローだったんだ」
「ちょっと、ヒロシ、大袈裟だよ」
先輩が苦笑いする。けれど、お父さんの目は本気だった。学校の三者面談のときよりも、ずっと熱くて、どこか誇らしげな、少年の戻り方をしたお父さんの目。
ギターヒーロー。
その言葉の響きが、なんだかすごく眩しくて、わたしはもう一度、抱えられた楽譜や弦の束に目を落とした。
(ヒロくんのお父さん……ギター教室……)
ということは、わたしがここで習うことになったら。
あの男の子と、わたしは同じ先生を持つことになる——かもしれない。
まだ弦の押さえ方も、チューニングの仕方も何も知らない。
けれど、大人たちの楽しそうな笑い声の向こうで、黒いテレキャスターが「おいで」と言っているような気がした。
「……火曜日、なら」
わたしは、隣のミキの顔を盗み見た。ミキはもう、ニヤニヤしながらわたしの背中を思いっきり叩く準備をしていた。
「生徒会もないし、大丈夫、かも」
呟いた言葉は小さかったけれど、ケンジさんは「よし、決まりだな!」と、今日一番にこやかな顔で笑った。