諦めなければ
思ったようにならない。
ギターを抱えたまま、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
テツヤ先生のあの奥の部屋では、もう少しちゃんと指が動いていたはずだった。まだおとといの出来事なのに、自分の部屋で一人で向き合うと、黒いボディも細い弦もなんだか急によそよそしくなる。ネットの動画を見ながら、教えてもらった通りに指を置いて、ピックを当てる。それだけのことが、なぜかどうしても噛み合わない。
「センス……ないのかなぁ」
天井の白い壁に向かって呟いてみる。もちろん、誰も答えてくれない。
右手をぼんやりと持ち上げて、お腹の上の弦を上から下へ、ピックで投げやりに払ってみた。
チャラーン。
まだコードの形にもなっていない、まとまりのない音が、静かな部屋に広がってすぐに消えた。
「夏休みはまだまだある。よし」
声に出して、自分で自分を鼓舞してみる。けれど言った直後、胸の奥に妙な引っかかりが残った。
なんか、わたしらしくない。
学校の試験でも、生徒会の仕事でも、わたしはいつも完璧に準備を整えてから動くタイプだ。出題傾向を掴んで、できることをちゃんと確かめて、大体これくらいの結果になるという予測をつけてから始める。
なのに今は、指の腹が痛むだけで一向に綺麗な音が出ないのに、なぜか「もう一回」と手を動かし続けている。挙句の果てに、誰もいない部屋で自分に「よし」なんて声をかけている。
……わたし、もしかしてムキになってる?
その可能性に気がついたら、なんだか急におかしくなってきた。正解への最短ルートばかりを探してきた優等生のわたしが、こんな泥臭く手探りを続けているなんて、よくわからないけれど、ちょっと変な感じだ。
おととい、初めて入ったあの奥の部屋には、テツヤ先生とわたしとミキの三人がいた。
「じゃあ、ここからもう一回やってみよう。焦らなくていいよ」
テツヤ先生が椅子をガラガラと引き寄せながら、穏やかに言う。
左手の指を一本ずつ、指示された金属の線——フレット、だっけ。その手前に置いていく。押さえる、位置を確認する、右手で弾く。文字にすればそれだけのことなのに、いざやってみると左手と右手がまったく別々の生き物になったみたいで、どうしても連動してくれない。
思わず、自分の左手と右手をキョロキョロと交互に見比べてしまう。
「そうそう、ちゃんと自分の手元を見てる。それでいいよ」
テツヤ先生がさらっと言った。
学校の授業なら「できて当然」の段階だし、褒められるようなことだと思っていなかったから、少し面食らってしまった。
ガラガラ、と引き戸の開く音が響いた。
「お疲れ様です! やってる?」
お父さんの声だ。スマホを鞄にしまい込んでいたから時間の感覚がなかったけれど、もう十九時を過ぎていたらしい。カウンターの方から、ケンジさんの「奥の部屋でやってますよ」という低いくぐもった声が聞こえる。
ドアがほんの少しだけ開いた。お父さんが頭だけをひょこっと覗かせて、テツヤ先生に向かってペコペコと頭を下げている。会社を経営しているときのお父さんじゃなくて、完全に「一歳下の後輩の顔」だ。
「先輩! お疲れ様です! ……あの、うちのカナ、大丈夫ですかね? 迷惑かけてませんか」
テツヤ先生は振り返って、白い歯を見せてニカッと笑った。
「ヒロシ、大丈夫だよ! 若いから慣れればすぐ弾けるようになるな!」
そうなのかな。
お父さんの前でそんな風に言ってもらえたのが、本当はすごく嬉しかった。けれど、それをそのまま顔に出すのはなんだか恥ずかしくて、わたしはきゅっと口元を引き締めると、何でもないような顔をして視線をすぐ手元のフレットに戻した。指先が少しだけ熱かった。
「ミキちゃんも、付き合ってくれてありがとうね!」
お父さんが声をかけると、隣に座っていたミキが胸を張った。
「任せてください! 奏の全コンプがかかってますから!」
大人たちの小さく笑う声が、ドアの隙間から聞こえた。
「ははは、そうか! よろしく頼むよ。カナ、お父さん店の方にいるからな」
ドアが静かに閉まる。
「よし、もう一回やってみようか。ゆっくりね。できなくて当たり前のことをやってるんだから、気負わずリラックス」
テツヤ先生の「できなくて当たり前」という言葉が、不思議とすんなり胸に落ちてきた。いつも「できて当たり前」に囲まれていたから、その余白がなんだかとても心地いい。
「おお、上手上手! やっぱり覚えるのが早いね」
「いや……まだ、ちゃんと音が鳴ってない気がします」
左手の指先を木の部分に押し付けたまま、右手を動かす。ボーン、と音は出た。でも、自分でもわかる。まだどこか掠れていて、綺麗な余韻にならない。
それでも、ミキは何も言わずにただ横に座って、こちらをじっと見守ってくれていた。その視線が、なぜか少しも邪魔に感じられなかった。
「よし、そろそろ終わろうか!」
テツヤ先生が大きな体を伸ばして立ち上がり、わたしの肩をポンと軽く叩いた。
「最初は誰でも簡単にできるもんじゃない。自分のペースでいいんだ。ギターはね、諦めなければ、誰にでも絶対にできることなんだよ。だから、慌てないでやろうな」
「はい」
諦めなければ。
その言葉が、耳の奥で静かに、何度も繰り返された。なんて優しい響きなんだろうと思った。完璧なロードマップなんてなくても、諦めさえしなければ、もしかしたらわたしにもあの黒いテレキャスターをちゃんと響かせられる日が来るのかもしれない。そんな根拠のない予感が、その瞬間だけは、すとんと素直に受け入れられた。
「ありがとうございました」
自然と頭が下がっていた。さっきの「いや、まだ」のときよりも、ずっと飾りのない、素直な言葉が口から出た。
スマホの画面を光らせると、十九時半を回っていた。一時間半も経っていたなんて信じられなかった。
「ミキ、ありがとう。ミキがいてくれたから、なんか、安心してできた気がする」
お店の外へ向かう通路で、今度はちゃんとミキの目を見て言えた。こういう言葉が、今日はわりとスムーズに出てくる。
「そんな真剣な顔の奏、滅多に見られないからね〜。わたし的には超役得だし!」
ミキはケラケラと嬉しそうに笑う。その屈託のない笑い方がやっぱり好きだな、と改めて思った。
今日のわたしは、これまでのわたしと少しだけ違う気がした。不器用にムキになって、それでも諦めないで、ちゃんとお礼を言えている。そんな些細なことなのに、なんだか自分のことが、少しだけよく分からなくなってきている。
シーさんとミキとは、お店の前ですぐに別れた。
すっかり暗くなった帰り道、お父さんの少し大きな体の隣を歩く。街灯のオレンジ色の光が、アスファルトの上に等間隔で並んでいた。
「どうだった、初日は」
「難しいよ、やっぱり。思った通りにいかない」
「そうか? 先輩はすぐ弾けるようになるって太鼓判押してたぞ」
「練習はするけど……すぐには、どうかな。よくわからない」
「まあ、地道に頑張るしかないな」
「そうだね。夏休みだし、時間だけはあるから、頑張るよ」
隣を見ずに向こうの街灯を見つめたまま答えた自分の声が、思ったよりもずっと落ち着いていて、自分でも少し驚いてしまった。
そして今、わたしはやっぱり、ベッドの上でギターを抱えたまま仰向けになっている。
天井を見つめたまま、もう一度だけ、左手の指をフレットの上に探り当てた。指の腹には、まだじんわりと硬い痛みが残っている。
でも、テツヤ先生のあの低い声が、まだ耳の奥にちゃんと残っていた。
「さて、頑張るか」
ゆっくりと上体を起こす。口からこぼれた言葉は、さっきベッドに倒れ込んだときの「よし」よりも、ずっと自然で、ほんの少しだけ軽かった。
ピックを親指と人差し指で挟み直して、わたしはまだ正解の出ない六本の線の上に、じっくりと指を置き直した。