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好きなこと

好きなこと

起きたら、右手の人差し指の付け根が鈍く痛かった。

昨日もだいぶ弾いたらしい。ベッドの中で目が覚めた瞬間から、体だけがそういうことを先に知っている。

ゆっくりと上体を起こして、ケースの隣からギターを手に取った。覚えたばかりのコードをひとつ押さえて、右手を振る。ボーン、と頼りない音が響いた。最初の頃みたいに、爪が滑って何も鳴らない、ということはもうない。まだ綺麗に響いているとは言えないけれど、ちゃんと音は出る。それだけで、おとといのわたしとはだいぶ違う気がした。

不思議なのは、昨日の自分にはどうしてもできなかったことが、今日になると何となくできるようになっていることだ。

昨日、Fの形のコードを押さえていたとき、中指と薬指がどうしても別々に動いてくれなかった。一本を押さえると、もう一本の指先が隣の弦に触れて、プツッと音が詰まる。何度位置を調整してやり直しても、やっぱり詰まる。もう今日はここで諦めようと思って、ギターを立てかけて寝た。

なのに、今朝もう一度やってみたら、なんか、なんとなくできた。

指は昨日と同じわたしの指のはずなのに。

あの楽器屋の奥の部屋で聞いた、テツヤ先生の低い声が頭に浮かんだ。諦めなければ、誰にでも絶対にできること。

寝ている間に頭の中で何かが整理されるのか、ただ一晩経って、余計なことを考えるのをやめたから指の力が抜けたのか、詳しい理由はよくわからない。でも、あの人が当たり前みたいに言っていた言葉の意味が、じわじわと体に腑に落ちていく感覚があった。


ミキは夏期講習で毎日塾に出かけているらしい。昨日もスマホに「今日も六時間コース、マジで死にそう」と短いLINEが来ていた。わたしもやるべき勉強はちゃんとやっている。午前中の二時間は、エアコンの効いた部屋でノートを開くのが今のルーティンだ。でもそれが終わると、気がついたら吸い寄せられるようにギターを手に取っている。

今年の夏休みのわたしが、こんな風に過ごすことになるとは思っていなかった。でも、全然嫌じゃない。それどころか、昨日できなかったことが少しずつできるようになっていく感覚が、確かにそこにはあった。


「奏〜、お昼だよ〜」

お母さんののんびりした声が、廊下から聞こえた。

わたしはギターを、ベッドのサイドにそっと立てかけた。最初のうちはこの動作をするたびに「滑って倒れないかな」と両手で何度も確認していた。けれど今はもう、確かめる前に勝手に手が動いている。なんとなく、この重さにも慣れてきたのかな、と思いながら部屋を出た。


お昼は素麺だった。

夏に素麺を食べると、なんだか夏そのものを食べているような感じがする。氷の入ったガラスの大きな器の中で、細い白い麺がひんやりとまとまっている。

「どう? ギター、少しは弾けるようになった?」

向かい側に座ったお母さんが、青ネギと生姜の薬味を小鉢に移しながら、何気ない風に訊いてくる。

「弾けるようにはなってないよ。まだ、ちょっとだけ触るのに慣れてきたくらい」

素麺をつゆの中で箸でほぐしながら答えると、お母さんがクスッと小さく笑った。

「あら! お勉強のときより、ずいぶん苦労してるじゃない」

まったく否定できなかったので、わたしは大人しく麺を口に運んだ。

「普通、親って『勉強しなさい』って言うものじゃないの?」

箸を動かしながら、なんとなく頭に浮かんだ疑問がそのまま口から出た。お母さんは一度箸を置いて、麦茶のコップに手を伸ばす。

「奏はさ、今まで勉強も生徒会もちゃんとやって、成績もしっかりしてたけど……この子が本当に好きなことって何だろうって、お母さんはずっと思ってたのよ」

「え、そうなの?」

顔を上げると、お母さんはいつもの明るい笑顔のまま、でも少しだけ真剣な目でわたしを見ていた。

「実はね、お父さんとも夜に話してたの。奏が自分から気になったって言い出したことは、何でもやらせてあげようねって。あ、でもこれ、お父さんには絶対に内緒ね? 本人には言うなって釘を刺されてるから」

お母さんは口元に人差し指を立てて、少しいたずらっぽくウインクをした。

そうだったんだ。

つゆの器の中の素麺を見つめたまま、わたしは頭の中でその言葉をそっと繰り返した。好きなことって何、か。確かに、今までそんなこと、あまり深く考えてこなかったかもしれない。音楽は漠然と好きだったけれど、それはただ聴くだけのもので、自分が何かを始めるなんて想像したこともなかった。

「あの映画の後でさ、お父さんが『何か始めてみたら』って奏に言ったでしょ?」

「うん」

「あのとき、お母さんも全く同じことを思ってたんだよね」

胸の奥の、一番深いところが、じわっと熱くなるような気がした。急に喉の奥が詰まったみたいになって、うまく声が出ない。

「……あ、ありがとう」

それしか出てこなかった。口の中の麺を慌てて飲み込んで、小さくそう言った。

「ほら! 伸びちゃうから食べよう! 午後は買い物の付き合いお願いね。荷物が多くなりそうだから」

お母さんの声が、いつものカラッとした明るさに戻る。

「うん」

残りの素麺を箸で持ち上げながら、わたしは声には出さずに、心の中で静かにつぶやいていた。

お父さん、お母さん、ありがとう。

物語の制作過程

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