出た言葉
ワイパーが右から左へ動くたびに、フロントガラスの雨粒が均一な半円を描いて消え、次の瞬間にまた同じ形の水滴となって付着する。
その繰り返しを、ただ眺めていた。
「雨の日の外回りなんて勘弁してくれよなぁ。連絡なんてメールでしてくれよ、まったく」
口から出た言葉は、公用車の湿った空気に吸い込まれてすぐに消えた。
助手席には、昼に食べたコンビニ弁当のプラスチック容器が転がっている。マヨネーズの残骸が白くこびりついたまま、その横には『来年度 地域活性化事業に関する基本方針(案)に関するお知らせ』と刷られた、大量の更紙の束が収められたフラットファイルが重なっていた。車体が揺れるたびに、それらがカサカサと小さな音を立てる。
信号が青に変わる。
アクセルを踏むと、軽自動車のエンジンがいつもと同じ音を立てて回転を上げた。靴の裏に染みた湿気が、ペダルを通じてじっとりと伝わってくる。自分の体が、ただ車を目的地へ運ぶための無機質なパーツになったような感覚のまま、ハンドルを左に切った。
路肩に車を止め、ハザードランプの規則正しい電子音を聞きながら外に出る。
ビニール傘を広げ、アスファルトの泥水を踏まないように数歩歩いて、その店の引き戸を引いた。
ガラガラ、と建付けの悪い音が鳴る。
店内の空気は、外の雨とは別の密度を持っていた。金属粉と、古い木材の、乾いた匂い。
「こんにちは、ケンジさん」
「ん? なんだエイジか。サボりか?」
「サボりじゃないですよ。息抜きです」
ケンジさんの問いかけに対して、口が自動的に選択して動く。
「待ってろ。コーヒーでも淹れるわ」
ケンジさんがカウンターの奥へ引っ込む。
俺は地味なスラックスの膝についた水滴を、指先で弾くようにして払った。丸椅子に腰を下ろすと、背骨が少しだけ丸くなる。胸ポケットに差した役場の支給品のボールペンが、クリップのところでわずかに軋んだ。
店内に流れる古いジャズの音は、耳を素通りして壁の楽器の山に消えていった。
「ほれ」
置かれた紙コップからは、わずかに湯気が立っていた。
「ありがとうございます……あちっ」
熱さを感じる神経だけが、自分の肉体の存在を妙に生々しく主張する。一口すすると、熱い液体が喉を下っていった。
ケンジさんはカウンターの向こうで、また手元の作業に戻った。ヤスリがフレットを擦る、シャッ、シャッ、という一定の硬い音が空間を支配し始める。
「そういやさ」
ケンジさんが手元を見たまま、平坦な声で言った。
「お前、もうベース弾いてないの?」
「ベース、ですか」
紙コップの縁を見つめる。
茶色い液体の表面に、天井の蛍光灯が白い線になって映っていた。
「売ってはいないですけどね。でも、もう諦めましたよ」
声は喉からすんなりと出た。
「そうか。まぁ、そんなもんだよな」
ケンジさんも、それ以上のトーンを乗せてこない。ヤスリの音を響かせながら、「もったいない気もするけどさ」と、ただ口にするだけだった。
「そんなもんですよ」
口角を少しだけ上げて、笑う形を作る。
ぬるくなったコーヒーを最後の一口まで流し込み、丸椅子から腰を浮かす。
「ケンジさん、ごちそうさまでした。また来ます」
「おう。風邪ひくなよ」
引き戸を引いて、再び外の雨の中に身を投じる。
公用車のドアを閉めると、ルーフを叩く激しい雨音が、車内を外の世界から切り離した。
キーを回してエンジンをかける。自動で立ち上がったカーステレオの液晶画面を眺めたが、ボリュームのつまみを左に回しきって音を消した。
ワイパーが、またフロントガラスの水を左右に弾き始める。
ギアを入れ、サイドブレーキを外す。
俺はただ、ファイルに綴じられた配布先の住所を目指して、アクセルペダルを静かに踏み込んだ。