始業
信号で止まったあと、助手席の方へ視線が落ちる。
エアコンの送風口が、湿った生温かい風をフロントガラスに吹きつけている。昼のコンビニ弁当の空き容器はさっきゴミ箱に捨てたはずなのに、助手席のシートにはまだ、あの安っぽい揚げ物の匂いがわずかに残っていた。その隣に、フラットファイルがぽつんと置かれている。『来年度 地域活性化事業に関する基本方針(案)に関するお知らせ』——外回りに出る前から横にある題名が、また目に入る。
車体が揺れるたび、更紙の束がカサカサと鳴る。
あの乾いた更紙の音で、四月初日の朝が戻ってくる。
市役所の駐車場に車を停めたのは、八時を少し回ったころだった。
新年度初日の廊下は、まだ消毒液と古いカーペットの匂いが混じっていた。靴底をマットで払い、地域振興課の扉を開ける。
「おはようございます。本日より着任いたしました、地域活性化係の三浦です」
瀬川課長の席の前で、深く一礼する。慣れた動きだ。口と背筋が、先に動く。
「ああ、三浦くんか。異動の挨拶は済んでるんだっけ」
「はい。人事からは連絡済みと伺っております」
「そう。じゃあ飯島くん、来てもらえる?」
係長の席から、飯島係長が顔を上げた。穏やかな顔だ。声も穏やかだ。
「三浦くん、よろしく。地域活性化係長の飯島です」
「よろしくお願いいたします」
瀬川課長は、挨拶の返事より先に、手元のファイルの端を指で叩いていた。もう次の仕事のほうへ移っている。
課内の朝礼は、三階の多目的室だった。
まだ暖房の切れたばかりの、ひんやりとした空気が足元にたまっている。地域振興課の名簿を読み上げる係の声が、冷たいコンクリートの壁に反響して返ってくる。俺の番が来た。
「……地域活性化係、三浦瑛二」
「三浦です。本日より着任しました。よろしくお願いいたします」
短く頭を下げる。周囲から、礼拝並みの返事は返ってこない。小さなうなずきがいくつかあるだけだった。
朝礼が終わると、飯島係長が係内の席の前に立った。
「三浦くん、自己紹介もう一回お願い。係のほうから」
同じ言葉を、もう一度口にする。前の部署より、声が少しだけ硬い。
「三浦です。生涯学習課から参りました。よろしくお願いします」
飯島係長が、順番に紹介を始めた。
「大槻主任。補助金と会計、文書まわりが主。引き継ぎはだいたい大槻さんから」
大槻さんは資料の束を膝の上に載せたまま、軽く会釈だけした。
「森下。現場調整と、関係団体への連絡が多い」
森下さんは、モニターの端を見ていた。視線だけこちらへ来て、すぐ戻った。
「近藤さん。庁内手続きと、過去資料の所在に詳しい」
近藤さんだけが、小さな声で「よろしくね」と言った。
着任から二時間ほど経ったころ、飯島係長が俺のデスクの前に立った。
「とりあえず、大槻さんから引き継ぎ。わからないことは森下に聞いて。同い年……いや、近いから、話しやすいでしょ」
「……はい。ありがとうございます」
大槻さんの席では、前任者の名前が入った箱が、すでに段ボールに詰められていた。庁内の噂では、急な病気での退職だと聞く。詳しいことは、誰も教えてくれない。
「補助金の様式は、このフォルダ。会計処理の流れは、ここにメモしてある。質問は、遠慮しないで」
大槻さんの声は事務的で、速い。俺がメモを取る間、森下さんが隣の席から言った。
「飯島さんに聞く前に、まず俺に来て。遠回りになるから」
「……」
そんな感じ、か。
「森下さん、よろしくお願いします」
森下さんは、肩をすくめただけだった。
会議の予定がホワイトボードに書いてある。文字は整っている。誰の字かは、まだわからない。
瀬川課長が通りかかり、「三浦くん、今日中に前任の分、ざっと目を通しておいて」と言って、戻っていった。飯島係長は、うなずいたように見えた。誰も、異論を言わなかった。
昼前、近藤さんが給茶コーナーで声をかけてきた。
「大変ね、初日から箱が山積みで」
「……おはようございます。少しずつ、やらせてもらいます」
「無理しなくていいのよ」
笑顔は穏やかだった。でも、そのあと近藤さんも、自分の席に戻って、音を立てないようにカップを置いた。
廊下の窓から見える駐車場には、薄い雲の隙間から、まだ頼りない春の陽射しが落ちていた。新年度の挨拶は、全部終わった。
スチール製のデスクの引き出しを引くと、前任者が貼っていたテプラの、糊の剥げかけた跡だけが白く残っている。
俺は、湿気を吸って少し波打った更紙の束を開き、丸まった鉛筆の先でチェックを入れ始めた。紙をめくるたび、指先がカサカサと乾いた音を立てる。意味のある仕事なのか、わからない。でも、手は止まらない。
不規則なワイパーの往復音が、俺を六月の雨の中へと引き戻した。
フロントガラスの端が白く曇り始めている。靴の底に染みた雨水が、ペダルを踏む足裏をじっとりと冷やしていた。助手席のフラットファイルは、車の振動に合わせて、まだカサカサと小さく鳴っている。信号が青に変わる。
俺はアクセルを踏んだ。配布先の住所は、ファイルの表紙に書いてある。覚えている。覚えていなければ、見ればいい。
口を開く前に、返事の型が先に選ばれる。
「大丈夫です。こっちで回します」