面倒事
最後の一軒は、坂の上にあった。
傘を差して、玄関先で更紙の束を差し出す。受け取った自治会長は、額に上げた老眼鏡を下ろして、表紙の長い題名をしばらく眺めた。
「これ、結局なにをやるんだい。来年、市長さんがなんか大きいのをやるって聞いたけど」
「……まだ、詳細を詰めている段階でして」
返事の型が、先に出る。
「ふうん。決まったら、ちゃんと回覧で流してよ。こっちも準備があるんだから」
「はい。決まりましたら、すぐに」
頭を下げて、また雨の中へ出る。
公用車に戻り、ドアを閉めると、ルーフを叩く雨音が、車内を外から切り離した。
助手席のフラットファイルは、朝よりずいぶん薄くなっていた。一日かけて市内の自治会を回り、『来年度 地域活性化事業に関する基本方針(案)に関するお知らせ』を配って歩いた。知らせている事業の中身は、何も決まっていない。決まっていないことを知らせる紙を、俺は朝から何十部も配っている。
ハンドルに手を置いたまま、しばらく動けなかった。
この紙が、初めて俺の手に回ってきた日のことを、思い出していた。
着任から二週間が経っていた。
大槻さんの引き継ぎは速く、メモはすぐに追いつかなくなった。それでも、わからないことは森下さんに聞けと言われたとおり、森下さんの席へ通った。森下さんは面倒くさそうな顔をして、それでも聞けば答えた。補助金の様式、決裁の回し方、庁内のだれに何を頼めばいいか。覚えることは多かったが、覚えれば、ひとつずつ仕事になった。
朝、課のだれかに、おはようございます、と言う。返ってくる声は小さい。それでも二週間も通えば、近藤さんは給茶コーナーで天気の話くらいはしてくれるようになったし、森下さんとは昼を一緒に食べる日もあった。
悪くない、と思っていた。少なくとも、手を動かしていれば、一日は終わった。
その日の午後だった。
内線が一斉に鳴って、地域振興課の全員に招集がかかった。三階の会議室。用件は、書いていなかった。
森下さんが、モニターから目を離さずに小さく言った。
「やだなあ。理由が書いてない招集は、ろくなもんじゃない」
俺は、笑った。意味は、まだわかっていなかった。
会議室には、ふだんこの課に顔を出さない人間が揃っていた。上座に市長。その横に部局長。少し離れて企画政策課長。そして、瀬川課長。瀬川課長が末席に近いところに座っているのを、俺はそのとき初めて見た。
市長は、機嫌がよかった。
「いやあ、ようやく予算がついた。来年度、この音羽で、でかいのを一発やる」
何を、とは言わなかった。
話は、部局長が引き取った。来年度の地域活性化事業。市の目玉になる。詳細はこれから詰める。ついては、ある程度専任で動ける人間を、係に一人つけたい——。
そこで、視線が動いた。市長が瀬川課長を見て、瀬川課長が、ほんの少し、俺のほうを見た。
「三浦くん、今年異動してきたばかりだったね」
「……はい」
「ちょうどいい。若いし、まだこれといった担当も決まってないだろう。サブで、回してもらおうか」
まだ担当が決まっていないのは、二週間前に来たからだ。それを、ちょうどいい、と言われた。
だれも、異論を言わなかった。飯島係長が、うなずいたように見えた。リーダーは飯島係長、サブが三浦くん。それで決まりだと、部局長が言った。何が決まったのか、俺にはわからなかった。
「よろしく頼むよ」
市長が、こちらに向かって言った。俺は立ち上がって、頭を下げた。
「……精一杯、やらせていただきます」
口が、先に動いた。
それから、毎週のように会議があった。
リーダーであるはずの飯島係長は、忙しかった。本当に忙しいのか、忙しいことにしているのか、俺にはわからなかった。
「三浦くん、悪いけど次の関係者会議、出といてくれる。俺、ちょっと立て込んでて」
最初の二回は同席していた飯島係長も、三回目にはもう、来なくなった。
関係者会議には、商工会や、観光協会や、名前だけ聞いたことのある団体の人間が集まった。みんな、俺より二回りは年上だった。
「で、市役所さんは、結局なにをやってほしいんですか」
「それは、これから皆さんと一緒に……」
「いや、決めてもらわないと、こっちも動けないんだよ」
決める権限は、俺になかった。決められる材料も、なかった。持ち帰って飯島係長に相談すると、「いいんじゃない、三浦くんがいいと思うようにやって」と返ってくる。任されているのではなかった。だれも、これを自分の仕事だとは思っていない。面倒事だけが、俺のところで止まっていた。
会議の議事録を作り、次回の日程を調整し、関係者に頭を下げて回る。何のために、はだんだん考えなくなった。考えても、どこにも届かないからだ。
五月の連休が明けるころには、会議の前に緊張しなくなっていた。六月に入るころには、何も決まらないまま会議が終わることに、腹も立たなくなっていた。
気づくと、また返事の型が、先に出るようになっていた。
「大丈夫です。こっちで回します」
だれも、大丈夫かどうかは、聞いていなかった。
ワイパーは、もう動かしていなかった。
坂の上の路肩に停めたまま、どれくらいそうしていたのか。フロントガラスは雨と曇りで白くにじんで、外の景色は溶けていた。
エンジンをかけ直し、市役所へ車を戻す。駐車場に停めて、もう一度エンジンを切ると、屋根を叩く雨の音だけが残った。
助手席の薄くなったファイルを拾い上げ、足元に転がった付箋や、キャップの外れたボールペンを、ひとつずつ集めて鞄に戻していく。明日もまた、決まっていないことを、どこかへ知らせに行くのだろう。
スマホが鳴った。
膝の上で、画面が光っている。表示された名前を見て、指が止まった。
消したつもりで、消していなかった。
「……マジか」
四年前に、空中分解したはずだった。だれも、終わりにするとは言わなかった。ただ集まらなくなって、連絡が途切れて、それで終わったことになっていた。あのときも、何も、決めていない。
画面は、まだ光っている。
雨の音だけが、車内に満ちていた。