3コードの話
シーさんはカウンターの端に座って、バッグから何かファイルみたいなのを取り出してた。けんじさんは奥に引っ込んでいて、店には蛍光灯の音だけがある。
「名前、聞いてもいいですか」
シーさんが言った。ぼくの方を見ないまま。
「ヒロです」
「ヒロさんか」
それだけで、シーさんはまたファイルに目を落とした。
しばらく何も言わなかった。ぼくはギターをまだ膝に置いたまま、どこを見ればいいかわからなくて、弦を指でそっと触ってた。力は入れてない。ただ触ってる感じ。
「今は弾けなくて、大丈夫ですよ」
急に言われた。
「歌いながらってことですか」
「そう。あれはすぐにはいかないですから」
「なんで」
「二つのことを同時にやってるから。どっちかが止まる。それだけのことですよ」
それだけのこと、と言った。悪い意味じゃなくて、本当にただそれだけのことだ、という感じで。
「ヒロさんが練習してる曲——Taylor Swiftっていう人が歌ってますよね」
「知ってます?」とぼくが聞いたら、シーさんが少し笑った。
「知ってますよ。その人ね」とシーさんが言った。「ギターを始めたのが、12歳の時だったんですよ」
「……何歳ですか」
「12。きっかけがまた面白くて」
シーさんがファイルを閉じて、こっちを向いた。
「家にパソコンの修理に来た人がいたんです。その人がたまたたま音楽もやってた人で。3つだけコードを教えてもらった、って話が残っていて」
ぼくは少し考えた。
「3つ?」
「3つです」
「……ぼく今、4つあるんですけど」
言ってから、なんで言ったんだろうと思った。シーさんはうなずいた。特に驚きもせずに。
「そうですか」
それだけだった。
ぼくはギターを見た。くたびれた塗装、くすんだペグ。お父さんが弾いてたやつ。この人のそれとは全然違う楽器のはずなのに、なんか同じ話をされてる気がした。なんでかはわからない。
「レコード会社に、全部断られたこともあって」
シーさんが続けた。
「11歳のとき、ナッシュビルっていう音楽の街に行って、デモテープを配って回ったんですけど。全社から断られた、って言われています」
「全社って」
「全部です」
ぼくは何も言えなかった。
「でも、そこで気づいたらしいんですよ。歌えるだけじゃ差別化できない、って。それで自分の言葉で曲を書くようになった、という話があって」
シーさんはそう言って、少し間を置いた。
蛍光灯がかすかに鳴いてた。外からトラックが通る音。
「……面白い話でしょう」
押しつけがましくなかった。「だからお前もできる」とは一言も言わなかった。ただ話してた。
ぼくは「面白いですね」と言えなかった。うなずくのも違う気がした。ただギターの表面を見てた。傷が入ってる。塗装の剥げたとこ。お父さんが弾いてたころからあったのか、それとも後からついたのか、ぼくは知らない。
なんか、そういうことか、とぼんやり思ったけど、何がそういうことなのかはうまく言えなかった。言えないまま、その感じだけがあった。
「ヒロ」
奥からけんじさんの声がした。「そろそろ帰れよ、暗くなるぞ」
ぼくはギターをケースに仕舞い始めた。ラッチを留めて、立ち上がって。
「また来るんでしょう」
シーさんが言った。聞いてる感じじゃなくて、確認してる感じ。
「……たぶん」
「そうですか」
シーさんはまたファイルを開いた。
外に出たら、空がもう橙色になってた。夏の夕方、光の角度が違う。ぼくはケースを肩にかけて、少し歩いた。
歌いながら弾きたい、という気持ちはまだある。でも今日気になったのはそこじゃなくて。
自分の言葉で、というところが、なんか引っかかってた。
なんでかはわからない。ただ引っかかってた。
