逸る気持ち
タクヤに声をかけられて、ぼくはやっと顔を上げた。
「ヒロすげ〜な。イントロ余裕じゃん」
「余裕では全然ないよ」
頭の中でさっきのフレーズをもう一度鳴らした。途中、どうしても指がもたつく。
「コードの形調べながら音出してるだけだし。ほら、ここ——」
ゆっくり弾いてみせたら、やっぱり詰まった。
「まだここができてないし」
「でも」ユウジが言った。「ちゃんと音は出てるじゃん。それだけですごいよ」
「そうそう」タクヤが戯けながら言った。「俺なんか指が言うこと聞かないもん」
そう言いながらコードを押さえようとして、詰まって、もう一度押さえてた。楽しそうだった。3人ともたぶん楽しそうだった。
今朝、目が覚めきらないうちにドアがノックされた。
「おう、ヒロ〜。楽譜置いておくぞ〜」
飛び起きた。
お父さんだった。仕事着のまま、手に紙の束を持っていた。
「ありがとう。今日、練習する予定なんだ。早速みんなで始めるね」
「一応簡単に説明しておくぞ。大丈夫か?」
楽譜を広げてもらいながら、説明を聞いた。眠気はどこかに消えてた。
「2人にも伝えておくね。本当にありがとう」
「そうか!頑張れよ。じゃあ行ってきます」
「お仕事頑張って」
「おう!」
足音が階段を降りて、玄関が閉まった。手の中を見た。ヒロ、タクヤ、ユウジと、名前が書かれたページがそれぞれあった。全部で3枚。
朝ごはんを食べていたら、お姉ちゃんがお母さんに聞いた。
「お父さん、昨日夜中まで何かやってたよ?」
「そうなのよ。ヒロが使う楽譜作るんだって言って、張り切ってたの」
ぼくはトーストを噛みながら止まった。
「夜中まで……?」
「ちょっと遅かったかなとは思ったけど」
「悪かったかな」
「大丈夫よ」お母さんが言った。「楽しそうだったから」
それから、ぼくの顔を見てちょっと笑って、「ヒロ。今日から曲の練習始められるわね。お昼ご飯は作っておくから、ちゃんと食べなさいよ」と言った。
「いつもありがとう」
お母さんとお姉ちゃんが出かけたあと、コンビニまでコピーしに行った。3枚が6枚になった。外はもう暑かった。
戻ってきて、3人で楽譜を広げた。それからずっと弾いてた。うまくいかないところは何度も止まって、動画を見て、また弾いた。
「楽しそうだったから」
ギターを置いて立ち上がっても、その言葉がまだ頭にあった。夜中まで張り切っていたお父さんの顔は見ていない。でも、お母さんの笑い方がなんとなく残っていた。
「そろそろお昼だよ。キッチン行こう」
「えー、もうそんな時間かよ〜」タクヤが言った。
「食べたら続きやろうぜ」ユウジが言った。
ぼくはギターを壁に立てかけた。まだできないところが残っていた。早く戻ってきたかった。
キッチンに降りると、テーブルにパスタが3人分置いてあった。ラップがかかっていた。
「おお」タクヤが言った。「いい匂い」
「座れ」ユウジが先に椅子を引いた。
3人でラップを外して食べ始めた。
「ヒロのお母さん、昼ごはんまで作っといてくれんの?」タクヤが聞いた。
「いつもそう」
「いいな」
しばらく黙って食べた。窓の外は昼の光だった。
「午後もやるよな?」タクヤが聞いた。
「当たり前だろ」ユウジが言った。「まだイントロさえ怪しいんだから」
「怪しいのは俺だけじゃない?」
「お前が一番なのは確かだな」
「ひどい!」
タクヤが笑った。ユウジも笑った。ぼくも笑った。
食べ終わって、3人で部屋に戻った。
ギターはさっきの場所に立てかけてあった。
誰からともなく、手を伸ばした。