声
楽譜を受け取ってから、4日が経った。日曜日。
お父さんが休みだった。
昼ごはんを食べ終わって、ぼくたちが部屋に戻ろうとしたところで、お父さんが声をかけてきた。
「どう、練習は?聞かせてもらえるか?」
「ぜひ!」タクヤが即座に言った。ユウジは「……まあ、いいけど」と少し間を置いてから言った。ぼくは頷いた。
少し得意げだった、と思う。自分でもわかってた。4日前はイントロさえ一人でしか弾けなかったのに、今は3人で合わせられる。それが、なんか見せたかった。
ぼくたちが部屋に上がると、お父さんは壁際に立った。腕を組んで、でも表情は穏やかだった。
「じゃあ、頼む」
ぼくはギターを構えた。タクヤとユウジに目で合図する。
1、2、3、4——
ジャン、ジャン、ジャラッ——
ジャジャジャッ、ジャジャジャッ、ジャジャジャジャーン——
ズンタラ、ズンタラ、タラララーラララ——
音が消えた。
沈黙。
「……十分すごいぞ」
お父さんが言った。
「この短期間でよく練習してるな!」
「でしょ!?」タクヤが一歩前に出た。「すごいよな?俺たち」
「すごい。本当に」
お父さんは笑った。冗談じゃない笑い方だった。
ぼくはなんか、くすぐったかった。直接言われると、どこを見ればいいかわからなくなる。ユウジは壁の方を向いてたけど、耳が少し赤かった。
「もう一回やるか?」
「やります!」タクヤが即答した。
2回目も、きれいに合った。お父さんはうなずきながら聞いてた。演奏してる人を見るときの目をしてた。ぼくはその目が少しだけ怖かった。上手い人に見られてる感じがして。でも悪い怖さじゃない。
「伸びてる」お父さんが言った。「ちゃんと練習した音がする」
「ところで」
音が止んだあと、お父さんが言った。
「歌は?」
「え」
「楽譜に一応書いてあるだろ。誰がメインで歌うの?」
3人で顔を見合わせた。
沈黙があった。
「俺、音痴だから」タクヤが真っ先に言った。
「本当に?」ユウジが横を見た。
「本当に。カラオケで証明済み。ユウジは?」
「……俺も、向いてない」
「なんで?」
「なんとなく」
ユウジが短く言い切った。二人がぼくを見た。お父さんもぼくを見た。
「…………」
「ヒロは?」お父さんが聞いた。
「ぼくも……」
「やってみたことは?」
「ない」
「じゃあ、なんで向いてないってわかるんだ」
返す言葉が出なかった。
「ちょっとだけでいいから、やってみたらどうだ」
強制じゃない。でも逃げ道もない。
タクヤが「そうだよ!やってみなよ、ヒロ!」と言った。ユウジは何も言わなかったけど、目が「やれ」と言ってた。
「……ちょっとだけ、ね」
ぼくはギターのヘッドを握り直した。
お父さんが「コード弾きながらやってみな。音程は後でいい」と言って、壁際に戻った。
指がポジションに落ちた。コードは弾ける。それはもう指が覚えてる。
問題は声だった。
出し方がわからない。ただ「出す」だけでいいのか、腹から出すのか、口の形は、音量は。何もわからない。
1、2、3——ゆっくり弾き始めた。
声を出そうとした。
最初は音にもならなかった。吐き出した息に、少しだけ音がついた程度。指は止まらなかった。もう一度。小さく、確かめるみたいに、音程を探した。
「……♪」
出た、と思った。
消えそうな声だった。ギターの音にほぼ埋もれてた。でも、音になってた。曲の一部みたいな形で。
「もう少し大きく」
お父さんが静かに言った。
「ぼく……」
「大丈夫。笑わないから」
隣でタクヤが「笑わない笑わない!」と言った。ユウジが「うるさい」と小声でたしなめた。
ぼくはギターを弾きながら、もう一度声を出した。
さっきより少しだけ大きく。
まだギターの音より小さい。まだ消えそう。でも今度は、ちゃんと「音楽の中にある」感じがした。コードと、一緒にいる感じ。
弾きながら、何か浮かんだ。
プラスチックの、赤いやつ。弦のところがでこぼこしてて、押してもガチャガチャ鳴るだけの、音にもなってないやつ。お父さんがそばで何か弾いてた。ぼくはそれを真似して、声を出してた。何の曲だったかは、もう出てこない。でも、声を出してた、ということだけは確かにそこにある。
お父さんが何も言わなかった。
ただ、聞いてた。
終わったあと、部屋が静かだった。
「……どう?」
ぼくが聞いた。
「うん」
お父さんが言った。それだけだった。
「うんってどっちのうん?」
「いいうん、だよ」
タクヤが「いいうんだって!」と声を上げた。ユウジが「だから静かにしろ」と言った。
ぼくは膝の上のギターを見た。
いい声とか、上手いとか、そういうことは全然わからない。ただ、声が出た。コードと一緒に出た。それだけのことなのに、なんか部屋の空気が少しだけ変わった気がした。
「歌詞は練習してから、な」
お父さんが言った。
「声、出るじゃないか、ヒロ」
ぼくは何も言わなかった。
でも、そうか、と思った。
ぼくの声が、ギターと一緒にいた。
それからも少し練習を続けた。歌は、もうやらなかった。ギターだけ。3人で、何度かイントロを合わせた。
夕方になって、タクヤが「そろそろ帰るわ」と言った。
「今日もありがとな、ヒロ」
「こっちこそ」
「また明日来てもいい?」
「いいよ」
タクヤは階段を大きな音で降りていった。ユウジはその後ろで、静かに立ち上がってギターをケースに収めた。
「……歌、よかったよ」
ユウジが言った。振り向かないまま。
「そう?」
「うん」
それだけ言って、ユウジも階段を降りた。
玄関が閉まる音がした。2人分の自転車が遠ざかる音がした。
一人で部屋に残ってた。
ギターを壁に立てかけたまま、天井を見てた。
声が出た。たぶんうまくはない。たぶん恥ずかしいやつだった。でも笑われなかった。お父さんも、タクヤも、ユウジも。
あの赤いプラスチックのことを、もう少し思い出そうとした。お父さんが何を弾いてたのか。ぼくが何を歌ってたのか。どうしても一歩先が出てこない。
でも、声を出してた、ということだけは、どこかにちゃんとある。
窓の外、夕方の光が斜めになってた。
ぼくはギターに手を伸ばして、また弾き始めた。今度は声も、少しだけ一緒に出した。誰も聞いてない部屋の中で。それでいい、と思った。