2回目
ギグバッグの長いファスナーを閉める。
この二週間、毎日欠かさず触った。あの初回のレッスンから、自分がどれくらいうまく弾けるようになったのかは、正直自分でもよく分からない。けれど、手のひらが、指先が、その感触を少しずつ覚えてきている。弦に触れたときの指の引っかかり、ネックを握ったときの木肌の重さ、左手の指の腹がほんの少しだけ固く強くなってきていること。
あの夕方、楽器屋の前で偶然すれ違っただけのヒロくんたちは、あの日からどこまで進んだんだろうと、ふと思った。
時計を見ると、十七時二十分だった。初めてあのお店に向かったあの日より、ずいぶん落ち着いている気がした。
「忘れ物ない?」
キッチンの方から、お母さんの声が小さくかかった。
「うん、大丈夫。行ってくるね」
玄関でギグバッグを背中に背負い直していると、エプロン姿のままのお母さんがパタパタと出てきた。
「じゃあ気を付けてね。それとね、お父さんも仕事の帰りに直接寄るって言ってたから、帰りは一緒においで。なんだかあの店に行くのが楽しいみたいでさ、最近なんかウキウキしてるのよ、あの人」
可笑しそうに笑いながら言うお母さんの顔も、なんとなく嬉しそうだ。
「わかった、一緒に帰ってくる。帰りにアイス買ってくるね」
「は〜い、行ってらっしゃい」
玄関の扉を開ける。初めてお店を訪ねたあの日は、緊張で手が少し汗ばんでいた。今日は不思議と、そんなことはない気がした。
古いガラスの引き戸に手をかけて、ガラッと横に開けた。
「こんにちは」
「はーい、いらっしゃい! あ、奏ちゃん」
ケンジさんがカウンターの中から顔を上げる。初めてこの引き戸を開けたときは、こんなにすんなり中へ入れるなんて思ってもみなかったな、と頭のどこかでぼんやりと思う。
「どうだい、指、痛いだろ? 大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。ちょっと慣れてきたから、最初の頃よりはそんなに痛くないですよ」
本当は、まだそれなりに痛い。精度高く押さえようとするたびに、じわっとした痛みが走る。でも、最初の頃の激しい痛みに比べれば、今の痛さは全然マシなのは本当だから、これは嘘じゃない。
「今日は一人なの?」
「はい、ミキは夏期講習の長いコースの日だから、今日は一人です」
「そっか。奏ちゃんは勉強しなくていいのかい?」
「まあ、わたしは午前中に自分のペースでちゃんとやってるから大丈夫です」
たわいもない、普通の会話。自分が全然緊張していないことに、ふと気づく。あの引き戸の前に立ちすくんでいた日のことを思うと、まるで別の誰かの話みたいだ。
「そろそろ来ると思うから、奥の部屋で待っといて。冷蔵庫から好きなの選んで飲んでいいからね。お茶しかないけどな!」
ははは、とケンジさんがいつものように豪快に笑う。
「はーい。じゃあ奥でギター出して待ってますね」
なんだか、この場所の仲間になれそうかも、と思いながら、わたしは奥へと続く廊下に向かった。
部屋の中で座っていると、しばらくして表の引き戸が開く大きな音が響いた。
「ウィーっす」
聞き覚えのある、あの少し低い声。テツヤ先生だ。
「おう、兄貴、もう来てるよ」
廊下の向こうから、ケンジさんの応じる声がくぐもって聞こえる。
「いいね。今日はギター、お前のところのやつ一本借りるぞ?」
「ああ、じゃあこれでいいか?」
ガタゴトと、重たいハードケースを動かしているような、乾いた木の擦れる気配がする。
「おっ、お前のストラトか。じゃあ借りるぞ」
どすどすと大きな足音が近づいてきて、奥の部屋のドアがぱっと開いた。
「はいどうも! どう、あれから少しは慣れた感じする?」
「こんばんは。はい、少しだけ慣れた気がします」
「いいね、その感じを大事にな」
テツヤ先生はがっしりした体を丸めるようにして奥の椅子に腰を下ろすと、持ってきたギターを膝の上で抱え直した。黒いわたしのテレキャスターとは、明らかに角の丸みや削られ方が違う、少し白いボディのギター。
「これはストラトキャスターって言うギター。奏ちゃんのはテレキャスター。形が違うからさ、出てくる音の太さも弾き心地も、全然変わるんだよな」
ギターの曲線を手のひらでなぞりながら、ものすごく嬉しそうに話すテツヤ先生を見て、この人は少し子どもみたいなんだな、と微笑ましく思った。
「そうなんですね。形が違うと、色々変わるんだ」
「後でちょっと弾き比べてみような。じゃあ、まずは前回のおさらいからいこうか。今日はオレも一緒に音を出すから」
「はい」
テツヤ先生が弦を爪弾いた瞬間、アンプを通して濁りのない太い音が部屋の空気を震わせた。その圧倒されるような音の塊に息を呑む。でも、全然嫌じゃない。どことなく優しくて温かい感じのする、不思議な心地よさがそこにはあった。
帰り道は、お母さんが言ってた通り、お父さんと一緒だった。
駅前の街灯やお店の明かりがぽつぽつと点きはじめた頃、二人でいつものコンビニに入った。お父さんは真っ直ぐにアイスのコーナーへ向かうと、冷凍ケースの透明な蓋を開けながら、カゴを片手にわたしを振り返る。
「カナ、どれがいいんだ?」
「わたしはこれ。お母さんは、このあずきのやつがいつも好きだよね」
「そうそう、お母さんはいつもこれだからな」
お父さんが持つプラスチックのカゴに、二つのアイスをぽんと放り込んだ。
「お父さんは、自分の分は買わないの?」
「オレはいいよ。今日は家で晩酌が待ってるからな。さっき、ケンジからいいやつを一本貰ったんだよ」
お父さんが嬉しそうに鞄の紐を少し持ち上げて、お酒が中に入っていることをアピールしてくる。
「晩酌なんて、珍しいね。いつもはそんなにお家で飲まないじゃない」
「ああ。せっかくあいつがくれたから、ちょっと飲んでみる気になってな。ツマミもついでに何か買っていくか」
楽しそうにツマミの棚へ歩いていくお父さんの、少し丸まった背中を見つめていたら、いつかお母さんがリビングで笑いながら呟いていた言葉が、ふと頭の中でリフレインした。
――男の人って、幾つになってもこういうのが好きなのよね。
半分呆れたような、でもどこか優しいお母さんの声が、夏の夜の風の中にエコーしていた。