夏の自覚
「行って来ま〜す」
「はーい、頑張ってね〜」
玄関の扉を閉めた瞬間に、夏の朝の強い光が目に飛び込んできた。まだ時間が早いのに、太陽が容赦なく地面を焦がしている。
目を細めながら、いつもの通学路を歩き始める。
夏休みの学校に向かうのは、なんだか変な感じだ。制服のシャツとスカートを身につけているのに、いつもと違う人間になったような、落ち着かない感覚がある。
昨日の夜遅く、スマホの画面に通知が跳ねた。担任のサナエ先生からのメッセージだった。
「明日のオープンキャンパス、生徒スタッフが一人欠員になっちゃって、奏さんに頼めないかな……!」
普通なら、高校3年生はこの時期、受験勉強があるからこういう役目は免除される。だけど、系列大学への内部推薦枠がほぼ確定していて、スケジュールが完全に空いているのは、生徒会の中でもわたしだけだった。先生が困ったときに真っ先にわたしの顔を思い浮かべるのは、よく分かる。
分かってた。分かっていたけれど。
「……なんでよ〜」
口の中で小さく呟いてみた。誰もいない道に消えていった声は、思ったよりも軽くて、自分の喉が少し鳴った。
本当は、昨日のレッスンの内容をノートにまとめておきたかった。テツヤ先生のいる部屋で、あの硬い弦を押さえるときの指の角度とか、最後に先生が鳴らしてくれた、お腹の底に響くような音の厚み。頭の奥にはまだはっきりと残っているけれど、こういう感覚って、放っておくと指の隙間からさらさらとこぼれて薄れていっちゃう気がして、それがなんか、もったいなかった。
これまでの学校生活では、学校の用事や生徒会の仕事を最優先にするのが、わたしの中で当たり前だった。なんの疑問も持たずに、そうやってそつなくこなしてきた。
なのに今は、学校に行くこと自体が、自分のやりたいことの邪魔をしているような、不思議な引っかかりがある。
「欲、なのかな」
信号待ちの横断歩道の手前で、ぽつりと言葉にしてみた。なんだか自分じゃないみたいで、変な感じがする。
今まで、何かが欲しくてたまらなくなったり、予定を投げ出したいほど何かに執着したりしたことなんて、あったっけ。自分のことなのに、よく分からない。
「やりたいこと、ってことかぁ……」
青に変わった信号を見つめながら、アスファルトの熱を靴の裏に感じて、わたしはゆっくりと歩き出した。
「ふう、終わった〜」
すべてのプログラムが終わり、静かになった廊下の端で、誰もいないのを見計らって大きく腕を伸ばした。背骨が小さく鳴る。
「奏さん! 本当にありがとう、助かったわ〜!」
廊下の奥から軽い足音が響いてきて、サナエ先生が小走りで近付いてきた。
たしか今年で二十八歳になると聞いた気がするけれど、いつも髪を一つに結んでバタバタと動いているせいか、もっと若く見える。先生というよりは、頼れるお姉さん、という方がしっくりくる人だ。
「大丈夫です、役に立てたならよかったです。時間はあったので」
「もう、奏さんしか頼れる人がいなくて! 他の先生たちからの『誰か確保して』って圧がすごかったのよ〜」
大袈裟に肩をすくめる先生を見て、思わずクスッと笑ってしまう。
「先生も、いろいろ大変なんですね」
「本当にそうなの……あれ?」
サナエ先生がピタッと足を止めた。首を少し右に傾けて、わたしの顔をじっと覗き込んでくる。
「奏さん、なんか雰囲気変わった?」
「え? そうですか? いつもと同じですよ」
「あぁ〜? もしかして、もしかして〜?」
先生が人差し指を立てて、ニヤニヤとこちらを見てくる。
「どこの誰なの〜? もう、隅に置けないわねぇ!」
「ちょっと、違いますって! そんな青春ドラマみたいなこと、何も起きてないですから!」
顔を見合わせて、二人でケタケタと笑った。廊下に高い笑い声が響いて、少しだけ風が通った気がした。
笑いの余韻が残る静けさの中で、胸の奥が少しだけ熱くなって、何かに背中をぽんと押されたような気がした。気が付いたら、自分でも驚くくらい自然に、言葉がこぼれていた。
「実は、ね。先生、ギターを始めてみたの」
サナエ先生の動きが止まり、丸い目がさらに丸くなった。
「ほう! 奏さんがギター!? 意外すぎる、全然想像してなかったわ!」
「やっぱり、おかしいかな……?」
「おかしいわけないじゃない! びっくりしただけ。でも、そっかぁ。楽しい?」
「うん。なんか、今はもう夢中、って感じで」
「いいじゃない、それこそ青春ドラマじゃない! だから目がキラキラしてたのね、納得だわ〜!」
先生は嬉しそうに、わたしの肩をバンバンと手のひらで叩いた。
「先生、地味に痛いですってば! もう!」
また二人で声を上げて笑った。
笑いながら、わたしは自分の胸のあたりをそっと触るみたいに、不思議な感覚に包まれていた。
これまでも、学校で友達と話して笑うことはたくさんあった。生徒会の仲間とも上手くやっていた。でも、こんな風に、心の中にある未整理の何かをそのまま差し出して、ミキ以外の誰かと笑い合ったことなんて、初めてかもしれない。
何かが、静かに変わり始めている。
それが上手く説明できないものでも、間違いじゃない、と、体の奥で確かに感じていた。
「ははは! じゃあ、用事も済んだしもう帰りましょう! 本当にありがとうね、お父さんお母さんにもよろしく言っておいて!」
サナエ先生はふざけた様子で、右手を額に当ててピシッと敬礼をしてみせた。それから、軽い足音を響かせながら職員室のほうへと歩いていく。
「お疲れ様でした」
小さく遠ざかる背中に声をかけて、わたしも回れ右をして校舎の出口へと向かった。
一歩外に出ると、夏の終わらない空が、まだ眩しいほどに明るく広がっていた。